「おい、もういいだろ」
 アウルは酷く不機嫌そうにこちらを睨んで言う。だが、ステラはまだ動きたくなくて、怒鳴られるのを承知で顔を横に
振った。
 まだ、こうしていたい。
 ここで、小波の鼓動が聞いていたい。
「ったく!こんなもん、戦場でいつも見てるだろーが」
 怒り出すと思ったが、アウルはぶっきらぼうに呟くと海を見つめて動かないステラの隣に並んで立った。
 海に還っていくかのような沈みかけの太陽に照らされ、海はオレンジ色に染まっていた。見つめる二人の顔も同じよう
に照らされていた。
 ただ、ゆっくりと風が吹き抜け、波の音が止むことなく寄せては返す。
 ブリッジからみつめる海もモビルスーツに乗って見下ろす海も、まるでこことは違った。ここには、それ以外何もない。
痛みも、苦しみも、悲しみもない。ただ、自分と海だけがそこにある世界。
 自分は「何にも繋がっていない」気がする。
 でも、こうして海を眺めているときだけは、繋がっている気がした。何が、と聞かれれば答えることはできないがステ
ラ自身、そんなもの必要なかった。
 こうして、少しでも感じることさえできれば、それでよかった。
「ステラ」
 波の音に掻き消されそうなほど小さな声で、アウルは言った。
「俺な、お前に」
 真っ直ぐに海に囚われたままのステラの横顔をアウルは見つめる。
 ステラはこの至福に満たされて、アウルの様子になど気づかなかった。自分を見つめる少年の瞳にはまったく。
「本当は……」 
「みて、アウル」
 もう、聞こえないほどの呟きだった為、気づかずステラはアウルを振り返って指をさした。
「あ」
 二人同時にその指の先を見やると、そこには星が尾を描きながら流れ、消えてゆくのが見えた。
 まだ夕焼けと闇夜が混ざるような空に、一瞬の灯りは自由に泳いでいくようだった。
「お星様、きれいだね」
「あれは、流れ星だぜ」
「ながれぼし?」
 ステラは目を瞬かせて、繰り返した。
「そう。星が一生を終えて焼け消えるときに流れ星になんだよ」
 星。
 ガイアで宇宙にあがることがある。その時に見る星たちは、ごつごつした岩の塊のようでまるで綺麗なものではなかった。
なのに、こうして地上からみあげると、どうしてかあの星たちはきらきらと輝いているのだ。
 コロニーだってそうだ。宇宙で見ればただの銀の塊なのに、こうしてここから見上げると、どうしてだろう。あんなにも
綺麗に見える。
 まるで、蝋燭が並んでいるようだ。
「アウル……、お星様、いきてるってこと?しぬと、およぐ?」
「え……あ、ああ?まあ、そんなもんだ」
 アウルの返事は歯切れ悪かったが、ステラは気にせず頷いてもう一度空を見上げた。
 無重力の世界にただ漂っているだけの星が、あんなふうに輝いて生き、死ぬときも自由に泳いでゆけるなんて。
「ステラ、うらやましいな……」
 死ぬのはいや。
 こわい。
 でも……人は死ぬ。たくさん死ぬ。
 脆くて、簡単に人は死ぬのだ。消えてしまう。
 それは、星と違って輝いてなどいなかった。ただ、酷く、空っぽで、虚しい。ただの亡骸になるだけ。
 いつか自分もそうなるのだろう。
 漠然と、ステラには奥底でわかっていた。でも。
 押し寄せる。
 怖いものと、それを消さなくてはならないと思う気持ちが。
 だから、戦わなくてはならないのだ。進まなくてはならない。いつまでも。決して、止まることなく。
「こわいの……、でも、そのために戦う。でも、ほんとうは知ってる」
 それを終わらせたいのなら、その怖さにもう追われたくないのなら。
 ステラは震える手のひらを握り締めた。
 ネオ。
 ネオは優しい。温かい腕で抱き締めてくれる。
 一瞬でも、その腕の中にいれば違う自分になれる気がした。強い自分でいられる、亡骸を夢見ない自分でいられる。
 本当は、知っているの。
 こわいのも。
 星のようにしぬことはないのも。
 死なないわけがないのも。
 

 ネオがくれる、優しさの意味も。


「アウ」
 呼ぶことは叶わなかった。
 きっと怒っているであろう少年を振り返った時には、ステラの肩をアウルが掴んで思い切り砂浜に押し倒していた。
 開いた口に砂が混じってざりざり言った。
 上から圧し掛かるアウルの体重に、ステラは息がしにくくて、顔を振った。
「……ステラ、多分。わかってるから。俺」
 瞬くのが精一杯でステラは、アウルをただ見上げた。目に映った少年は今にも泣き出しそうだった。
「今日、も、昨日、も、俺らにないってこと。あるのは、明日だけ」
 見たことのないような、優しい色がアウルの目元に広がる。ゆっくりと大粒の涙がその海の色の瞳からステラの頬に落ちた。
「だからさ。今日の、俺は気が違ったみたいだ。お前にこんなこと言おうとしてる」
 綺麗な透明の涙が、また、ぽつりと落ちる。
 砂浜に背を預けたまま、ステラはアウルの押さえつける両腕を片方外して、そっとその涙を拭った。
「……なくの」
 苦しそう。
 とても。叫びたいのに叫べない。出たいのに出れない。
「ステラ。好きだ。俺、お前、好きだよ」
 頬に触れたステラの手をとって、アウルはその手の甲にキスした。とても優しく。守るようなキスを。
 ゆっくりと緩められた拘束は、徐々に抱擁に変わる。
 落ちてきたアウルの体重に、ステラは目を伏せて腕を回した。
 
 いつも、怒鳴るか、時には蹴ったり叩いたりする。
 そうさせてしまうのは、ステラだった。
 なぜ、アウルがそうなるのかはわからないが、ステラのせいだということだけはわかっていた。
 だから、アウルのいう「今日」は変な日だ。

 ネオと同じものを、アウルがくれるなんて。

 
「ばーか。ステラの、ばーか……」
 ステラの胸に顔を埋めたまま、いつもの憎まれ口を叩くアウル。
 なんだか、この気持ちは小瓶の魚を眺めているときと似ていた。
 何も言わずに、ただ側に居てあげたくなる。
 そっと、撫でてあげながら。

 

 


「ステラ?」
 瞳を開くと、間近にシンの朱の瞳があった。心配そうにこちらを見下ろすその色は、揺れていた。
「……泣いてるの?」
「夢、みたの」
 ステラはベッドから体を起こし、ぼやける目を擦ってシンの肩に縋りついた。
「そっか」
「うん。シン」
 優しくステラを腕の中に招いてくれるシンに、ステラは微笑んで抱きついた。温かい。なんて、温かいのだろう。
 目閉じて、暫くそのままじっと浸かる様にその腕に収まり、こちらを見下ろすシンに自分から口づける。触れたと
ころから、温かいものが流れ込むようにステラを占めた。
 その温かさに安心する。人に戻った気がした。
「……いつ帰ってたの?」
 僅かに口唇を離して、ステラは首を傾げた。
「さっきだよ。まだ今、朝の六時なんだけどね」
 苦笑するシンを見て、まだ彼が軍服なことに気づく。ミネルバは任務のため、遠征に出ていた。帰宅できるのはもっ
と後だと聞いていたのだ。
「予定より、早く戻れたんだ。その分、休暇もらえた。喜んで?」
「シン」
 側に居てくれる。
 嬉しくて、再びステラは抱きついた。どんなに求めても、いくらでも受け止めてくれるその腕は、逞しくて、温かい。
思うと、胸が痛くて、苦しくなった。
 アウル。
 アウルは、あの時。
「……応えてほしかったんだ、きっと」
 言葉にすると、ますます締めつけていた痛みが増した。
 こんなふうに、あの時、自分もアウルにしてあげられたら。温かさを分け合えたら。もしかしたら、アウルの「明日」
にまだステラは残ったのかもしれない。
 アウルも、この温度を知ることができたかもしれない。
 ステラは確かめるように、シンの顔をそっと手のひらで覆った。
「ん?」
「へんなの。ここが」
 そういって、ステラは胸を押さえた。
「シン、かえってきて、嬉しい。こうして、触れてうれしい。でも、たりない」
「ステラ……」
 少しだけ、寂しそうにステラは目を逸らすと続けた。
「ステラ、シンにはなれない。なるの、だめ。でも、どうしたらシンは、てにはいるの?」
 まるで哲学のような言葉になったが、ステラは真剣に聞いていた。シンの瞬くだけで動かない様子に、悲しそうに目を
伏せた。
 答えはないのか。他に欲しいものなんてないのに。それが知りたいのに。
「……そんなに、俺がほしいの?」
 ほしい。
 もう、どこにも行かないでほしい。
 ずっと、ずっとこうして、この大好きな瞳を見つめていられたら。
 そのためなら、ステラの何だってあげるのに。
「もう、君のものなのに?」
 ゆっくりと微笑むシンに、ステラはすぐに顔を横に振った。
「ちがう。ステラの、ない」
「どうして?」
「むずかしい、ことば、できない。でも、ちがう」
 もどかしい。うまく言えない。わかるのは、心が苦しいということだけ。
 ちかいをしても、この指に繋ぐ指輪をもらえても、この苦しさは消えない。貴方が、目の前にいるほど。
「うう……。ここに、シン、いるのに」
 ステラは呻くと、そのもどかしさを掴んでいたシンの服にぶつけた。強引に引っ張り、自分に寄せると確かめるように
もう一度口唇を寄せた。深く、もっと、深く。
 知らず、シンの背がカーペットにつく。それも気にせず、ステラは探るように懸命に口づけた。シンも応えるように優
しく触れてくれる。返ってくる温かさに、胸がまた熱くなった。
「ん」
 息継ぎをしてステラは自分の体勢に、いつもと逆だと思いながら、それでもシンの頬に口唇を寄せた。
「ステラ、そんなに俺が好きなんだ?」
 ちょっと意地悪な笑顔を浮かべたシンが目に飛び込んでくる。ステラはこくりと頷くと、そのほっぺたに噛み付いた。
「こら」
「シン、すきだよ」
 似たような悪戯な笑みを浮かべると、ステラはシンの首元に顔を埋めた。
「まだ朝だぞー、シン・アスカ」
 何やら、いつものごとくシンが独り言を言っていた。ステラは気にせず、幸せな気分でそのままでいる。
 窓から差し込んでくる朝日も、触れ合うことのできる時間も、感じあう体温も、不思議で仕方ない。この世に、こんな
ものがあるなんて。
 ねえアウル、ひとりじゃなかったら、もしかしたらお星様のように泳ぐことができるかな。
「……ごめん」
「?」
 ふと、聞こえてきたシンの遠慮がちな声にステラは目をあげた。
「その、うん。ほんとごめん」
 シンは視線を泳がせ、頬を赤くしてもう一度繰り返した。
 一体、何に対して謝っているのかステラにはわからなかったが、起き上がって見下ろしたら何故かパジャマの前はすっか
りはだけていた。
 

 

 

 

 


「なんとなく、わかる」
「わかる?」
 聞き返すステラの頬にはご飯粒がついていて、シンは思わず抱き締めたくなったが我慢した。
 同時に、たった今、食卓で話題に上った少年のことを思い出していた。
「だって、あいつ。俺のこと、めちゃめちゃ睨んでたもん」
 ステラを海で助けて、その後偶然にも遭遇した青年と少年。ステラの言う、スティングとアウルとはあの二人だろう。き
ちんと顔を覚えているあたり、印象的だったのだろう。
 だろう、というか、あのアウルってのとは最悪な第一印象で、喧嘩までした。
「嫉妬だったわけか」
「しっと?」
「そ。俺はてっきりステラのお兄さん達かと思ってたからさ、気づかなかったけど」
 思い出して、溜息をつく。
 あの警戒を通り越した憎むような瞳は、コーディネーターへの憎しみと同時にステラに触られたという嫉妬の表れだった
のか。そう言われれば、あの場でした言い合いも納得がいった。
 そうか……、ステラを。
 シンは目の前で一心に湯で卵を剥いているステラを見やって、目を細めた。
 ステラの大切な仲間。スティングとアウル。その三人の姿が自分に重なった。レイとルナマリアと並ぶ自分。少し分かる
気がしてしまうのだ。
 恋愛とか、友情とか、そういうもので結ばれているのではない関係。
 通り越して、生死の一線で共に過ごさなくてはならない極限の精神状態で育む対人関係。それが、いつしか人間らしいも
のに変わっていくのは自然なことだ。シンとルナマリアだってそうだった。
 しかし、戦争という現実の前に、その感情は簡単にすり替わる。
 本当は愛していたのだろう。なのに、そうではないと答えを恐れ、なかったことにして逆に嫌う。触れてしまえば、拒ん
でも己の気持ちに逆らうことが出来なくなるから。
 そして、ステラという少女は裏表のない無邪気な子供であり、欲ある男という生き物からすれば飼い殺しなわけで。
「はい、シン」
 一息ついて、ステラはにっこり笑って剥けた卵をシンに差し出した。
 わかるよ、アウル。ある意味、罪だよな。このステラって女の子は。
「ありがとう」
 受け取った卵は、綺麗に殻が取ってあった。シンが食べるかどうか窺っているステラのお皿にはまだ剥けていない卵が残っ
たままだった。
 こんなにも、ステラは変わらない。
 多くの悲惨な環境にいたはずなのに。消えない傷を負っているのに。どうして、こんなに俺より幸せそうに微笑むのだろう。
「よし」
 シンはステラのお皿から卵をとって、あっという間に殻を剥く。
 先ほどステラがしてくれたように、卵を差し出してシンは笑った。
「はい、ステラも」
「シン。すごい」
 感嘆の声を上げ、恐る恐る受け取ったステラは自分のしたのより綺麗に剥けている卵にをまじまじと見つめた。
「俺の母さんさ、手伝わないヤツには飯抜きだってよく言っててね。マユは女だし、そりゃあ出来たことに越したことないけ
ど……俺なんか、変に野菜切るのも、炒めるのもうまかったりして笑われるんだよ。で、家庭科の授業でクラス全員分の卵を
罰ゲームで剥いたこともあるわけ。そら、早くもなるよな」
 思い出して、シンは苦笑した。
 マユの奴がお菓子作りにはまった時は悲惨だった。毎日のようにボウルを持たされ、混ぜろだの泡立てろだのと手伝わされ
る始末で、やり出したらとことんやらなければ気のすまないシンは、結局コツを掴むに至ったのだ。
 お陰で、生クリームを泡立てさせたら料理人顔負けのはずと自負していた。
「……シン、じゃあ」
 見やったステラは何故か食卓に並んだ皿を悲しそうに凝視していた。
 テーブルには、ステラの頑張ったサンドイッチに茹でたウィンナー、タリアにわけて貰った自家製ヨーグルトとゆで卵。
「シン、ほんとは……」
 ゆっくりとステラの視線がシンに移る。その目は今にも泣き出しそうなほど潤んでいた。
「スっステラ!違う、いや、そうじゃなくてっ」
 全力で否定するために顔を横に振りながら、内心シンはかなり焦っていた。
 確かに、ステラの用意してくれた朝食はお世辞にも美味しいとはいえない。いや、味の問題ではなく、センス?いや、なぜ
か墓穴を掘りそうな展開だ。
 そうじゃない。ほら、きっと連合では料理もしないし、そもそも食事はせずサプリで済ますとか言ってたし。それできっと
サンドイッチに大根が入ってたり、果物が入ってるのにマヨネーズたっぷりだったりするだけで……駄目だ。駄目。
 これでは駄目だしになっている。
 違う、ステラを傷つけたいわけじゃない。だって、別に食べれるし、剥いたゆで卵が今にも実は中から卵黄が生のまま出て
きそうでも口に入れたら一緒だし。
「だー!なに考えてんだ、俺!そうじゃないんだってば」
「シン、作ったほうがおいしい」
「そんなことない!そんなことないよ。ステラがしてくれるから美味しいの、俺はそれが食べたいんだよ」
「でも、シン、得意。ステラ、苦手」
「大丈夫!これからずっとしていくんだし、うまくなるよ!」
「……」
 必死になって言葉を笑顔で返していたら、急にステラが黙った。
 まずい。
「やっぱり……いま、へたなんだ」
 やってしまった。
「す、ステラ、あのな。料理って、誰がやっても同じだし、その通りにできるかどうかで、最終的には好きな人がしてくれるっ
てことで味わいがね、その、あれ、やばい?」
「……シン、むずかしい」
 珍しくステラはむっつりとそう言うと、黙々とゆで卵を口に運んだ。
「あ」
 思ったとおり、一口で放り込まなかったステラの口元でゆで卵が盛大に卵黄を登場させていた。

 

 

 

 


 外は快晴。
 冬のオーブは毎日のように雪が降っていたので、曇っていない空は久々だった。真っ青な空を見上げ、ステラは嬉しそうに
背伸びした。溜まっていた洗濯物のこれで気持ちよく乾くだろう。
 シンに手伝ってもらって庭に干したお布団も、柔らかい日差しを浴びて気持ち良さそうだ。
「んと、今日は」
 ステラはつけたエプロンの大きなポケットから、水色の携帯を取り出した。
 ボタンを押すと、画面に今日一日の約束したことがメモとなって出るようにアスランがこの間設定してくれたのだ。
「お昼から、マルキオ牧師のとこ……」
 干し終わった洗濯物を見やって、ステラは携帯をしまう。
 数日早く帰ってきたシン。
 持ち帰った仕事を今はリビングでしていた。こうして、洗濯物の間からそっと室内を覗くとその横顔が見える。真剣な表情
と締まった瞳に胸が高鳴る。
「いいな、あれ……」
 ぼそっと呟いたステラはシンの見つめる端末に羨望を向けた。覗いてるのに気づかないシンは、時折天井を仰いだり、頭を
掻いたりと忙しそうだった。
 お仕事が終わるようなら、シンもついてきてくれるだろうか。
 週に何度か手伝いにいくマルキオ牧師の仕事は、教会での奉仕だった。カガリが力をいれている復興の一環で、ラクスもプ
ラントの仕事と行き来しながら、何度となく顔を出している。
 頼み込んで始めた仕事は、ステラに多くの知らなかったことを体験させてくれた。
 触れ合ったことのない、子供、友達、仲間。戦うことを抜きにして得るものに、戸惑いながらも知りたくて、手に入れたく
て、必死に自分に為せることを探していた。
「シン、きたら、みんな……凄くよろこぶ」
 小さな子供たちは皆揃って、ガンダムが好きだった。戦争が終わった後からは、モビルスーツは慈善と復興の為に使用され
多くの場で活躍していた。そして、その姿は子供の憧れで、被災地にはMSのショーが行われるほどに今では平和の象徴だっ
た。
 だからこそ、戦なき後もミネルバ、そしてアークエンジェル共々休みなく稼動しているのだ。
 そんなMSのパイロットが来てくれたなら。
「!」
 シンと目が合い、思わずステラは急いで干したシーツの後ろに隠れた。
 こっそりと見つめていたのがシンにばれてしまった。
「あ、え……うん」
 慌てながらも、ステラはあたふたと足元の洗濯籠を手にとってその場を離れようと振り返った。
 しかし、進もうとしたその前にぶつかってしまう。
「う?」
 何もないはずなのに一体何にぶつかったのだろう。
 ステラは顔を上げると、シーツを避けてシンがそこにたっていた。
「どしたの、かくれんぼ?」
 にっと楽しそうにシンは笑う。
「……な、なんでもない」
「そう?俺に用じゃないの?」
 こういう笑顔のシンは意地悪だ。ステラは手にした籠を前に持って、通してくれないシンに抗議の視線をやった。
「ステラ」
 こうなったら、もう勝てない。
 どうしてそんな風に優しくステラを見つめるのだろう。
 シンの笑顔は、温かくて、求められているような、腕を広げてあげたくなるような、そんな気持ちにさせる。
「シン」
 吐息のようにその名を呼んで、ステラはその腕に触れた。足元にとんと籠が落ちる。
「おねがい」
「なに」
 腕に寄りかかるようにステラは小さな頭を預け、シンの声に目を伏せた。
「おひる、教会いくの。一緒に、きて?」
 シンの指が、ゆっくりと髪を何度と梳いてくれた。その感触にステラは息をつく。温かい日差しと一緒になって
とても心地良かった。
「俺でよければ」
 触れた胸のあたりから声が響く。
 大好きな声。シンの、甘くて優しい声。
「……ありがと」
 大丈夫だよ、シン。
 怖くなんかない。私の愛しい人は、貴方が思うよりずっと皆に愛されているのだから。
「なんだ……バレてるの、もしかして」
「ん。わかる」
 頷いて見せると、シンは困ったように眉を下げた。苦笑を浮かべて、少しだけ悲しそうに瞳を瞬かせた。
 本当は、怖いのだということ。
 多くの戦火の跡を訪れ、今も尚救済のために活動していたとしても、消えない己の罪に痛む胸があるということ。
 勝ち得る、生き残ると言うことが、誰かを殺めてきたという証。いくら賛辞をもらえても、表彰されても、以前の
ように喜ぶことはできないこと。
 未だ、MSを見て、憎悪と悲愴を蘇らせる人がいるということ。
 その眼差しが、自分に向けられて当然だと思うということ。

 わかる。
 わかるよ、シン。


 シンの気持ち。
 シンの悲しみ。
 本当は温かい腕で、守られていたい。休みたい。
 安寧を得たい。
 
 だから、そんなふうに微笑むということ。


「大丈夫。誰も、シン、傷つけない。ステラ、いる。まもるの」
 だから、心配しないで。
「こども、みんな、喜ぶ。シン、だから。ガンダムなくても、喜ぶ」
 それは貴方だから。
「でも、なくのは、ステラと」
 シンの瞳にゆっくりと浮かんだ涙をそっと拭って、ステラは引き寄せて抱き締めた。
「ないていいよ、たくさん。そのあと、げんきになって、行こう」
 抱き締める。
 たくさん、愛をこめて。
 シンにこの想いが届くように。
「ふしぎなシン。みんな、こんなにもシン、愛してるのに……ふしぎ」
 気づいていないのは、貴方だけ。
 だから、何度でも言おう。側にいて、貴方がいつでも愛に溢れていられるように。

 


 晴れた空。
 風に棚びく洗濯物たち。
 背中にはオーブの海。
 まだ多く残る雪をも溶かしそうな、二人の抱擁。

 小さなステラの可愛い家の庭で、そんな光景が展開されていた。
 それを、小道の垣根から覗く影があった。
「もう、あれはドラマだな」
 見つめたまま、頷いてカガリは言った。
「カガリ、寒いし、行こうぜ」
「アスラン、邪魔したいだけだろ?」
「当たり前だ」
 当然のように言って平然としているアスランにカガリは嘆息して、もう一度二人を見やった。
 抱き合う二人はとても温かそうで、あんなに小さくて頼りないステラがシンを守って抱いているように見えた。
「ステラのお陰だよな……」
「ん?」
「いや」
 カガリは顔を振って、口を閉じた。
 シン・アスカとは、出会ったときから本当に虚しい言い合いしかしたことがなかった。せっかく、オーブの民で
あるものと話をする機会ができたというのに、彼は心からアスハ家を憎んでいた。その憎悪は憎しみを通り越した
哀しみだったが、あの頃のカガリには謝罪も、その心にも、気づくことが出来なかった。
 そして、互いを傷つけあう言い合いしかできなかったのだ。
 今思えば、自分のことばかり、自分の境遇ばかりを考え、父の選択を批判する彼にその思いを分からせたいと少
なくとも思っていたのだ。だからまず謝ることが出来なかった。
 すれ違って当然の二人だったのだ。
「カガリ、いつか話せるといいな。あいつと」
 俯いたカガリの頭に手のひらを乗せ、アスランは微笑んだ。
「ああ。そう思う」
 きっと、私とアスランは少し似ている。多くを語らないことも、平等にと思ったことが勘違いさせてしまうとこ
ろも、素直ではないところも。
 そのアスランが今ではシンと仲良くなったのだ。私にもいつかそうなれる日がくると思えた。
「言っておくが、仲良くないぞ」
「仲いいじゃないか」
「良くない」
「はいはい。あー、いいな。シンは」
 カガリはまだ抱き合う二人を見て、ぶっきらぼうに言った。
「シン?この場合、お前はステラを羨むんじゃないか?」
「いや、ステラは、なんていうのかな。抱き締めたくなる」
 言われてアスランも二人に目をやった。
 ちいさくて、か細いステラ。しっかりとシンに腰を抱かれて、つま先立ちでシンの肩に腕を回す姿は妖精のようだっ
た。
「な?妖精みたいって思っただろう?」
 心を読まれてアスランは嫌そうにカガリを振り返った。面白がるように笑っているのに腹が立ったのか、アスランは
急に立ち上がった。
「おい?」
 慌てて見上げたカガリに、アスランは言葉なく、カガリの両脇に腕を差し入れ立たせた。
 そして、そのまま優しい力で抱き寄せた。
「カガリは、女神ってところだな」
 耳元でそっと低音で囁いて、その拘束を解く。
 真っ赤になってカガリは口をぱくぱくさせた。なんでこうも、こいつは唐突なんだ。
 この飄々とした態度がまたむかつく。慌てるのはいつもカガリだけ。
「お前なあ……!」
 抗議の拳を胸に叩きつけようとしたその腕を掴まれ、しっと指で口唇に当てられる。
「俺の女神は色気が足りないな」
「ばっ」
「人ん家の前で何やってんすか?」
「!!」
 アスランとカガリは同時に振り返った。
 驚きのあまりに声が出ない。
 向かい合って腕を取り合う二人の固まる姿に、シンは呆れた顔で無情にも溜息をつく。
「いちゃつくなら、他所でやってくださいよ」
『お前に言われたくなーい!』
 バカでかい綺麗なユニゾンだった。

 

 

 

 

「大体、お前が悪い」
「はあ?俺っすか」
「そうだ。お前が抱き合ったりしてるからだ」
「あんた、人のこと言えないでしょうが。一目はばからぬは昔からあんたの方じゃん。部屋にラクスさんがさ」
「いっ言っていいことと、よくないことくらい考えろ!」
「カガリさんに言ったほうがいいことでしょーが」
「お前は何もわかっちゃいない!」
「説得力ねー」
 遊んでいるようにしか見えないシンとアスランのやり取りを、カガリとステラは後部座席で聞いていた。
 呆れて突っ込む気も起きないカガリは、隣のステラが退屈していないか窺った。
「カガリ?」
「あ、いや。なんでもない。車は酔わない?大丈夫か」
 ステラは赤紫の瞳を瞬かせて微笑むと、頷いた。カガリはその様子につられて微笑むと、運転席の喧騒を忘れて
ステラに話しかけた。
「行政が少し落ち着いたから、今日は来れたんだ。最近、こっちに顔出せてなかったし……皆変わりないか?」
「うん。みんな、カガリに会いたい」
「本当かー?ステラのお陰で、私はお払い箱なんじゃないの」
「みんな、カガリすき」
 嬉しそうに笑うステラは可愛くて、カガリは照れた。無邪気だなあとこうして話すといつも思う。彼女の過去は
全く残っておらず、出生に関することは何もなかったが、歳はそんなに離れていないと思う。なのに、とても幼い
印象を受けた。
 そして、時折見せる表情は、幼さとかけ離れた儚いものでもあった。
「ステラはシンが大好きだもんな」
「うん、すき。シン、すき」
 照れる。
 何故こうも素直に言ってしまえるのだろう。この素直さ、少しでいいから分けてほしかった。カガリには到底、
真似出来そうにない。そうなりたい気持ちと裏腹に、柄にもないという意地が先に出張った。
「カガリ、シンすき?」
 その質問は突然だった。そして予想もしていなかった。その為、思わず言葉に詰まり反応できずに固まってしまっ
た。
「ステラ、カガリさんが好きなのは、このアスラン・ザラだよ」
 すると、思いもよらぬ助け舟が助手席から降ってきた。まずいと、そう思った本人から。
「カガリさん、趣味悪いよ。考えなおしたら?」
 カガリは返事も出来ずに瞬いた。
 隣でステラが首を傾げて、助手席に乗り出した。
「アスラン、カガリすき。カガリもアスランすき。ステラと一緒?」
 シンとアスランを交互に見て、ステラは瞳を輝かせた。
「……ああ、一緒だよ」
 運転しているため、前を見たままだったがアスランは小さく返事した。
 シンが鼻でへっと笑うと、意地悪そうに口の端を上げて言った。
「ステラ、アスランさんはムッツリ系だから気をつけるんだよ」
「シン。後で覚えていろ」
「え?忘れました」
「……殺す」
 再び始まった言い合いにステラは興味をなくして座席に戻る。まだ声も出せずにいるカガリにそっと笑顔を向けた。
「これ、ある。ちかい、した?いっしょだね」
 ステラはカガリの薬指をさして、言う。
「え、いや……まいったな」
 言って苦笑すると、カガリはステラから目を逸らして窓の外を見やった。
 景色が見たかったわけじゃない。
 映り込む自分の顔に息を呑む。なんて顔してるんだろう。
 一言でも話せば、なんだか堰を切ったように泣いてしまいそうだった。
 忙しい日々の中、戦が終わってから、こんなに安堵した日はあっただろうか。かつて違えた人間と、かつて刃を向け
あった人間、そしてすれ違いなかなか通じ合えなかった愛しい人。
 そんな人間たちに囲まれて、こんなふうに話すことができる今。
 自分だけが苦難に立たされていると、そう思わずにいられないときもあった。
 ラクスのようになれないとも思ったことがあった。
 でも、私はオーブを背負う代表で、まだ若いと議会では性別と歳のせいで強く出れないこともあったが、なんとか地
位を築いてきた。
 戦後二年、自分なりに歩んできたオーブの為の道。
 そんな中、本当は息をつけたことなんてなかった。安堵したことなど、なかったのだ。


 ああ、一緒だよ。


 アスラン、本当は不安だったんだ。
 お前のくれたこの指輪。今も私は離さず身に着けているが、それは意味があるのかと。
 もらったあの時のまま、意味を成しているのかと。
 さっきの言葉、本当なら私は。


 強く瞼を閉じ、息を吐くとその背中をステラが柔らかく撫でていた。
 何も言わず、ただ何度も優しく往復する手のひらにカガリは目頭が再び熱くなる。
「……あり、がとう」
 思わず、ステラを振り返りカガリは小さなその肩を抱いた。
「カガリ、すき」
 少女は甘い香りがした。
 小さいのに、何故か包まれているように感じる。母になったような、子供になったような、そんな気持ちがした。
「シンは幸せ者だな」
 自然と出た言葉に、助手席のシンが振り返らずに答えた。
「はい。とても」
 心でカガリはシンに頭を下げた。共に、礼も述べる。
 まだ、はっきりと言葉にも形にもできなかったが、カガリにとって漸く一歩踏み出せたような気がした。腕に収ま
る不思議な少女のお陰で。
「カガリさん、俺……、オーブに感謝してます」
「シン……」
 驚いて声を出したのはカガリではなく、アスランだった。
「一度は憎み、滅べばいい、俺の手で滅ぼしてやるとまで……思ったような俺に、オーブは帰してくれました」
 言って、なんとも言えない優しい笑みを湛えてシンはステラに視線を向けた。
「こんな俺に、生きろと。謝らず、約束を果たして生きろと、きっとそう言われているんだって。オーブに」
 カガリはシンの笑顔を見つめているうちに、勝手に頬を涙が伝うのを感じた。
 彼は、彼は本当に今、生きているのだ。
 今、懸命に自分の道をひたすらに。
 本当の彼は、とても優しくてつよい人間なのだ。カガリにとって、シンはある歪みの現われで乗り越えなくてはなら
ない傷だと思っていた。関係を修復することが、いつか他の傷への糸口にもなるのではないかと。
 それは違うようだった。
 彼は彼であり、一人の人間として、同じように己の道を突き進んでいるのだ。
 ちゃんと、現実に向き合って。戦ってきた過去から目を逸らさずに。
「……何が正しいかなんて、俺にはわからないけど……貴方に託したりしません」
 射抜くような朱色の瞳がカガリに向けられた。
「俺たち、みんなで作ってく。貴方はひとりじゃない。だから無理、しないでくださいね」
 言い終えて、シンはすぐに席に戻ってしまった。
 止まることのない頬を伝う涙に、カガリは息を呑んだ。

 お父様、聞いていましたか。
 どんな悲しみも、どんな苦しみも、人間は乗り越えてゆけるのですね。
 共存を目指し、誰も拒むことのない国を。
 ありました。お父様。
 ここに。


 あの時、自分の側を選ばずに国を選んだ父を、幾度と泣いて苦しんだことがあった。
 もう、今のカガリには迷うことも、悲しむこともない。
 オーブは、民と共にあるのだから。

 

 

 

 

「こいつが、シンか!」
 開口一番、そう言われた。
 どのガキにも。
「ステラ姉ちゃんは俺のだ!」
 二言目には、そう言われた。
 どのガキにも。
「こんな寝癖やろーのどこがいいんだ!」
 三言目には、そう言われた。
 どのガキにも。
「だー!うるせえ!ませガキどもがーっ」
 最後には、そう叫んだ。
 どのガキにも。


 子供を必死の形相で追いかけ回すシンを、女の子たちと花を植える作業をしていたアスランは鼻で笑う。
 バカめ。
 周囲で一生懸命、泥だらけになりつつも花の苗を抱えて土を掘る子供たちにアスランは微笑んだ。これこそ癒し
だと実感する。アークエンジェルに搭乗してMSで瓦礫を除去するのも、施設の撤去を行うのも確かに実感はある。
だが、こうして未来の命が笑っているのを見るのとはまた違った。
 命が、命を育てる。
 この子達の未来は、守っていかなくてはならない。
「お兄ちゃん、これ」
「ああ、青虫だね」
「きもちわるい」
「そうかい?」
 花の葉についた小さな緑色の幼虫に少女は顔を顰めた。アスランはそっとその子の肩に手を置いて言う。
「ほら、見てごらん」
 指差す先に、黄色の蝶が優雅に飛んでいた。
 花壇にいた子供たちは感嘆の声を上げる。とても立派なアゲハチョウだった。
「この子、ああなるんだよ」
「えええ!」
 気持ち悪がって苗を離していたのに、少女は途端に顔を近づけて瞬いた。周囲にいた子供も集まってその幼虫を
凝視しだす。
「今すぐにはならないよ。今はまだ赤ちゃんなんだよ」
「信じられない!」
 口々に驚きの声を上げると、子供たちはその幼虫に夢中だった。
 アスランにとって、こうして子供と触れ合うことは、キラほど得意ではない。だから進んでここへは来ないが、
こうしていると良いものだなと、キラの気持ちがわかる気がした。
 忘れていたことを、思い出す気がした。
「アスラン」
 顔を上げると、そこにカガリが立っていた。
「ちょっと、いいか」

 

 

 ステラはマルキオに頼まれた教会内の掃除をしていた。
 柔らかい日差しが天井のステンドグラスから差し込んで、虹色に揺れて床に映っていた。
「きれい」
 モップを携えたまま、ステラはその真下に歩み寄った。
 丸い形の七色の光。
 その真ん中に立つと、まるで世界が輝いているようだった。
「ラ……ラララ」
 ステラはたん、たんとゆったりとステップを踏みながら、その円の中で踊り出す。くるりと回るたびに景色が虹色に
尾を引いて輝いた。
 手にしたモップが自然とステラの相手役となって踊りだす。
「……ふふ、……ラ、ララ」
 綺麗。
 ステラは嬉しくなって、目を伏せては開き、瞬いては閉じてその輝きを楽しんだ。
「……ラ、ラ」
 ひとしきり歌い、共にゆっくりと踊りを最後を決める。モップと一緒にお辞儀して、静かに体を起こした。
 すると、教壇の向こうに並ぶ長椅子の方から、拍手が聞こえた。
「シン……」
「そこにいて踊ってると、ほんとに天使みたい」
 シンは長椅子に座って、こちらを見ていた。
「みて、た……の」
「うん。見てたよ」
 どうしてすぐに声をかけてくれなかったのだろう。
 ステラは恥ずかしく思い、思わず俯いた。持っていたモップと踊っていたのだ。おかしいと思ったに違いない。
「ねえ、俺とどう?」
「え?」
 いつの間にか側まできたシンはステラの手から、そっとモップを取って置いた。
 恭しくお辞儀して、シンは静かにその丸い七色の円に足を踏み入れ、ステラの戸惑う手を取った。
「天使様、私とどうか踊ってくださいませんか」
 手の甲に優しくキスすると、シンは照れたように顔を上げた。
 ステラも頬を赤くしたまま、笑顔で目を伏せた。
「……はい」
 手を取り合って、片方の腕は支えるようにステラの細い腰へ。
 ゆったりと、ゆっくりと。 
 ステラの描くステップに合わせて、一緒に回る。
「シン、ふふ、シン」
 楽しそうにステラが笑う。回るたびにきらきらと日差しが七色に光った。
 初めて出会った時もこうして踊っていたステラ。
 青い海、青い空、ステラは天使みたいに踊っていた。今でも鮮明に瞼の裏に蘇るその姿は、目の前の姿とはまた
違っていた。
 今のステラは。
「可愛い」
 抱き寄せた腰を、もっと寄せてシンはステラをくるりと回した。
 急に早く回った景色に、ステラは驚いて瞬いた。
「あ」
 世界が急に逆さになる。
 落ちる。
 そう思ったら、シンの腕がしっかりとステラを支えていた。ゆっくりそのまま、床に下ろしてくれる。
「でも、天使じゃなくていい。俺のステラでいて」
 不思議そうに目を開くステラに、シンは上からそっと覆いかぶさって床に手をつき、その口唇に触れた。
 天井のステンドグラスの光が、シンを形取って逆光になる。見上げたシンはまるで記憶の中の光のようだった。
「シン」
「はい」
「……シン」
 なんて美しいんだろう。 
 七色の光が、きらきらとシンの髪を輝かせる。
 見つめ返すシンの瞳は、ステンドグラスの赤よりずっと輝いていた。
「……あー、マジやばい。もう、なんか、我慢したくない」
「?」
 優しい眼差しで見つめていたかと思うと、シンはステラの胸に顔を預けて急に呟いた。
「俺、だって男の子ですよ?もうすぐ成人ですよ?いや、まだゆっても18ですけど。そうじゃなくて、ステラが
いけないんだって。可愛いし。我慢できてるの奇跡なんだって。でも、やっぱまだ早いかなって。ステラのこと優
先したいし。互いに本当に求め合ってそうなりたいっていうか。今のままじゃ、襲っ……」
「襲ってるだろうが」
 げし!
 って音が確かにしたと、シンは思う。
「アスラン」
 ステラは蹴られて向こうへ行ってしまったシンを見やったが、上から覗き込んでいるアスランに微笑みかけた。
すぐにアスランが手を差し伸べてくれる。
「ステラ、大丈夫か。可愛そうに」
 ステラを起こしながら、アスランは背後で転がっているシンを睨んだ。
「ったく、油断も隙もないな」
「シン、悪くない。怒らないで」
 尋常でない怒りをアスランから感じて、ステラはその腕に縋った。
 身を起こし立ち上がったシンはシンで、アスランを憎悪の篭った双眸で睨んでいた。
「アスラン・ザラ……あんたとはやっぱり一度ケリつけなきゃならないようだな!」
「はっ、場所も選ばず襲おうとしている奴が、俺に勝てるとでも?」
「うっうるさい!人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られるんだぞ!」
「さすがだな。カガリにお家芸だなんて古臭い言葉を言っただけあるぞ。シン・アスカ!」
「だっ黙れえ、どれだけ記憶力いいんだよっ」
 切って落とされた火蓋はもう戻らない。
 ステラは何度となく見ているこの状況に、またまたおろおろするばかりなのだが、ここは教会である。外では子供
たちが遊んでいるはずだし、このままここでいつものを始められたらかなり困る。
「二人とも、やめて、ここ、だめ」
 必死に二人の間にステラは体を割りいれて、止めようと叫んだ。
「おねがい」
 まだ冷静に見えるアスランの方にステラは懇願の目を向けた。
「わかった。やめよう」
 アスランは微笑んで、紳士的な仕草でステラの手を取った。
「ありがとう、アスラン」
 ほっとして息をつくと、背後でまだ怒り収まらぬ、というより先ほどより怒りの増したシンがいた。
「その手を、離せ……!」
「断る」
 アスランは冷ややかに言うと、ステラの手を握ったまま歩き出す。
「ちょ!アスラン、どこに」
「皆でおやつの時間だそうだ。行こう、ステラ」
 シンの横をいとも簡単にすり抜けて、アスランはステラの手を引いたまま進んだ。
「いい加減に……」
「シン、まだステラに手を出せてなかったんだな」
「う」
 振り返ったアスランの意地悪な笑顔に、シンは拳を握って戦慄く。
「焦って傷つけたりするなよ?もし、無理やりしたりしたら……」
 凍えるような鋭い瞳がシンに突き刺さる。
 俺、この人のこんな殺気、戦場でも感じたことないんですけど……。
「俺なら、物凄く計画的にしてあげるのに。可愛そうなステラだな」
「自分のことを棚にあげて、無茶苦茶いうなー!!!」
 もっともであった。

 

 

 

 

 

 お前にとって、私はなんだ?
 それは、そう聞いてはいけないことなのか。
 それは、私が、お前にとって「私」ではないということなのか。


 口に出すことは簡単で、あっけなく零れ流れた。
 なのに、もう戻すことは叶わない。なぜ、言葉も、涙も、人は発することができるのに、取り戻すことができないのだろう。
 無力だ。
 そう、その自覚は、嫌というほど経験した。
 私には力などないのに、いつでも私は選択というものの前にいた。選ぶほどの力も持たずに、そこにいた。そして、誰かの
代わりに。誰でもいいのかもしれない、その選択をしてきたのかもしれない。
 いつでも、己に出来うることは「信じる」ことだけだと、それさえも信じて。
 
 なあ、アスラン。 
 私という人間が、お前に見えているのだろうか。
 ここに私はいると、いつでも、訴えている気がするよ。
 それを自覚すると、情けなくも残ってるプライドがどうしようもなく叫びだすんだ。

 お前の目の前にいるのに。
 私はここいるのに。
 
 お前は、誰を見つめているの。


 風が冷たかった。
 教会から少し離れた丘から、カガリは一人遠くに見えるオーブの海を見下ろして佇んでいた。
 オーブ。
 生まれ、育ち、父の守った国。
 いつか、いつの日か、愛する人と両親のように愛を以って国を作りたいと、そう思うようになった。戦が終わり、自分の成す
べき道をもはっきりとさせなくてはならない中、その思いは一層強くなった。
 それは唯一の肉親である、キラが一番よく知っていることだった。
 失ったものを、同じ皿に返すことは出来なくても、そこに新たなものを注ぐことは出来る。それならば自分にも出来る、と。
「……キラ、私は間違っているかな」
 カガリの呟きがまた吹いた風に攫われて、消えていく。
 握り締めた拳が痛かった。なのに緩めることすら、億劫でカガリはただ堪えるように瞳を据えたまま動かなかった。
 遠い。
 なんて、遠いのだろう。
「私にはその小波すら聞こえない」
 柄でもない。
 綺麗な服も、お化粧も、年頃の子がするような恋愛も、胸を痛ませ悩むことも。
 なのに、今の自分はこんなにも融通が利かない。
 考えてはいけないと思っても、同じ場所をぐるぐると巡り、気づけば浮かんでいるのはあいつの顔ばかり。
「情けないぞ。カガリ・ユラ・アスハ。しっかりしろ」
 落ちそうな涙を顔を振って無くすと、カガリは大きく深呼吸して背伸びした。
「一世一代の……って感じだったんだけどなー。バカみたい」
 橙色に光る双眸は、やはり景色を映さず別のものを記憶から拾って投影していた。

 かつて、銃を向けたこと。
 かつて、共にMSに乗り戦ったこと。
 かつて、隣に居て偽りの名を語りながらも守ってくれたこと。
 かつて、約束の指輪をくれたこと。
 そして、一緒に歩もうと再会できたあの日のこと。

 どの記憶も、鮮明で、色づいていた。
 変わらない愛する者の瞳に、胸は掴まれたように痛んだ。いつでも彼は変わらない。いつでもその意思をもった瞳で側にいてく
れた。そう、変わったのは私か。
 そして変われなかったのも。

「まだ、か……」
 そうなりたいと、少しでも思ってくれているのだろうか。
 だから、今はと言ったのだろうか。
 つい先ほど車中で聞いた言葉がリフレインする。
「独り言ですか?」
「……シン・アスカ」
 急に聞こえた声に振り返ると、風に漆黒の髪を棚引かせながら、同じように遠くの海へ視線を馳せる青年がいた。
「フルネーム、よして下さいよ」
「あ、いや……アスカ、君」
「シンでいいですって。気を遣わないで下さい。貴方が誰かに君付けで呼んでるのなんて聞いたことないし」
 シンは苦笑して言うと、カガリの位置までやってきて隣にたった。
 今の彼は、出会った頃と違って人懐っこい雰囲気を纏い、話し易い空気があった。あの食い入るような怒りの刃、憎悪の行方に
決着がついたという証なのだろう。
 隣に立つ青年は、カガリから見ても魅力的な芯のある男だった。
「実はちょっと、気になってたんですけど」
 少し肩を竦めて、シンはカガリを見やった。朱の瞳が真っ直ぐにこちらを見たので思わずカガリは目を逸らした。
「……アスランさんと、うまくいってます?」
「は?」
 逸らした顔をすぐに戻して、ハテナ一杯の顔でカガリは見返した。
「いや、さっき車で話してた時に……てか、なんつーか」
 相手は至って真剣に話しているようだった。だが、カガリからすると今までいがみ合う、とまでは言わないが決して快くは思っ
ていなかった相手と、こんなプライベートな話をいきなりできるものかと疑問に思う。
 どういう意図でシンがその話を振り出したのか、詮索してしまうところであるが、気にした風もなくシンは続けた。
「あんたら、ずっと昔からそういう関係なんでしょ?しかも相手はあのアスラン・ザラだし。なのに聞けば一回は政略結婚まで決
意して結婚式挙げたっていうし、ザフトにアスランさんいたのにアークエンジェルに乗ってたし……で、今は戦もなくなって、も
う二年経つし。わけわかんないなあ……あれ、俺、変なこと言ってます?」
 カガリはまさにポカーンという形容が正しい心境だった。
 目の前の青年は、一生懸命にまるで学友の恋愛を心配するように頭を捻って唸っていた。からかう訳でもなく、ただどちらかと
いうとアスランのことを気にかけて。
「……あ、空気読めって?あはは。またルナマリアにどやされるや」
 黙って何も言わないカガリにシンはまずいと感じたのか、遠慮がちに笑いを浮かべて後退した。
「すいません。でしゃばって……俺、先行ってますね」
「ま、待て!」
「え……」
 行きかけたシンを思わず、腕を掴んでとめていた自分に気づいて、カガリは手を引っ込めた。
「す、すまない。いや」
「カガリさんって、可愛いとこあるんすね」
「はあ?」
 盛大に驚いて見せたカガリにシンは可笑しそうに笑って、隣に戻ってきた。
 その表情はとても穏やかで、それでいて親しみがあった。まるで、本当に友達にするように、そっと気遣った笑みで。
「俺、頭悪いから難しいことは分からないんですけど、貴方もアスランさんも、同じ思いを抱いてるのに互いに言い訳して突っ張り
あってるっていうか……素直になったらいいのになって」
 言って、次いで浮かべたシンの少し翳った表情はカガリにとって衝撃を受けるようなものだった。
 悲しそうで、それでいて、羨ましそうな。
「俺は叶わないことがあるの、わかったときからもう後悔したくないって思うようになりました。意地張って、理屈こねても、結局
同じ答えしか出ない。時間は過ぎるけど、増えないから。今って時間は、当たり前じゃないから」
「……シン」
「そんな、顔。しないで下さい。俺、幸せですよ」
「ああ。知ってる」
 互いに瞳を合わせて、笑いあう。
 なんだか、笑い合っているのに、泣いてるような感覚。
「アスランさんて気難しいみたいにしてるとこあるよね。いらないっすよ、そんな余計な格好」
 鼻で笑うように辟易して見せて、シンはこちらを見返した。
「あの人のどこがいいんです?」
 今度こそ、カガリは声を上げて爆笑した。
 かつての上官をまるで悪友のように言うシンが可笑しくて。ここにいないのに、いるかのように罵りそうなシンが可笑しくて。
「笑いすぎですよ。俺、ほんと分からないんですから」
「よく言うよ。本当は私より、わかってるんじゃないか?あいつの良さ」
「ばっ」
 一瞬にして顔を真っ赤にしてシンはカガリを見た。しかし、続く憎まれ口はない。
「……まあ、認めてますけど……」
「ほら、みろ」
 カガリは知らず、シンを見つめるのに恐れがなくなっていた。今まであったしこりは無かったことのように消えてしまい、こん
なにも気を許した自分がいるのに気づく。
 そうか、だから彼はザフトであんなにも慕われているのか。
 彼の人となりが、そうさせるのだろう。戦時から、彼は勝手で無茶をする酷い兵士だったとアスランから聞いたカガリは一緒に
ミネルバに乗ってそれを体感したこともあっただけに、なぜあんなに大切にされて慕われるのか正直疑問だったのだ。
 気が付けばシンの周りにはいつでも人が集まる。
 その理由をカガリは実感していた。
「さっきな」
 だから、こんなことまで話そうとしている。
「アスランに私から、言ったんだ」
 相手はあの苦手なシン・アスカだというのに。
「一緒に国を支えていかないかって」
「え、ほんとにそう言ったの?」
 かなり真剣に告白したのに、シンはその余韻さえ打ち破って口を挟んだ。
 思わず怪訝な顔でカガリはシンを見た。
「なんだ、ちゃんと聞けよ」
「いや、待って。まじで?」
「あ、ああ」
 頷いて見せるとシンは、まさに「あっちゃー」と言いそうな雰囲気で額に手を当てた。
「だめ、だめだって。カガリさんてば、もー」
「何がだ、ダメなんだ?」
 心底、頭を抱えるシンを見てカガリはよっぽどのことをしてしまったのかと焦って眉を寄せた。
「……確かにさ、あんたにとって国って、大事なもんだろうしそれなしには話せないのかもしれない。でもさ、あんたはあんただろ?
どうして、あんたの話するのにそんな言い方するの?」
 シンは真摯な眼差しでこちらを見つめ、カガリの言葉を待っていた。
 カガリにとって、思いがけない言葉だった。
 いつでも、どんな時でも、私を見てほしいと願ってやまないのは自分のはずだった。
 そして、きっとアスランはこんな公私混同してしまう自分をよく思っていないはずだ。結局は国よりも、自分のことを優先しようと
する、情けない自分を。
 それなのに。
 それなのに、目の前の青年は正反対のことを言う。
「アスランさん、何て?」
「……今はまだ、って」
 躊躇いがちに、カガリは呟いた。
 抑揚のないシンの問いかけは不思議とカガリの口を緩めた。張っているはずの意地が、知らずほどけて素直に言葉になっていた。
「そっか」
 思わず、カガリは顔をあげてシンを見つめた。そこに答えがあるわけではないのに。縋るように。
「そんな顔、らしくないですよ。アスハ代表」
「……私は、カガリだ」
「うん。そうだな、その方がらしいね」
 シンは気持ちのいい笑顔で笑った。海風がそっと二人の髪を揺らす。
 いつだったかアスランが言った。
 わかり合えない思いの人もいる、いつか時が解決してくれることもある、と。
「本当に、その通りだな。アスラン」
 聞こえないほどの声でカガリは呟くと、横のシンを窺った。その横顔は幸せそうな笑顔で足もとに見える教会を見下ろしていた。
「お前は本当にステラが好きなんだな」
「はい。どうしたらいいかわからないくらい……好きですよ」
 目に映る黄金色の小さな頭を愛しそうに見つめて、囁くように言う。何故かそれは寂しそうな笑顔で、カガリは気になってつい聞い
ていた。
「なぜ、そんな顔をするんだ?」
「え?」
「好きなんだろう?互いに思いも通じ合っている。ステラもお前も幸せそうだ。なのに……お前も、ステラも……たまに消えそうな感
じの笑い方をする。なぜだ?」
「……怖いから、ですかね」
 言ったシンは本当に困ったような苦笑を浮かべた。頭を掻いて、嘆息するとカガリに向きなおって続けた。
「俺も人に言えませんね。でも……、俺としては今日もう一回言ってほしいな。アスランさんに」
「言うって」
「好きだから、側にいてほしいって。私だけと、一緒にいてほしいって」
 カガリは瞬いた。声が出なかった。
 なぜ、彼は私の心を知っているのだろう。
 なぜ、話しこんだこともない彼がこんなにも言葉にすることができるのだろう。

 思うと同時に悲しい思いも浮かぶ。
 伝わってほしい人間には伝わらないのに、どうして彼にはわかっているのだろう。
「それ、違いますよ。アスランさんは知ってると思う。でも、だからこそじゃないかな?」
「……もう!心を読むなっ」
 半泣きでカガリは抗議した。シンは笑っただけで返事はしない。
「ほら、今日だけ。今日だけ、素直になるってどうですか?」
「そんなの……」
「大丈夫です。アスランさん、意地っ張りなだけですから」
 そっとシンは微笑んで、頷いて見せた。
 視界が滲む。
 もう、様々な思いが心を巡って言葉にならない。
「早くあんたたちにくっついてもらわないと、俺、いつまで経ってもステラに手を出せないし」
 真剣な顔をして言うシンに、カガリは笑った。
 おかしくて、楽しくて、なんだかシンらしくて、笑った。一緒に落ちた涙は弾んで宙を舞い、消える。
「泣くほど笑わないでくださいよ」
 目の端を拭いながら、それでもカガリは笑った。
 シンの肩をばんばん叩いて、感謝の気持ちを笑顔に代えて。
 気づけば、ちらほらと青空に粉雪が舞い始めていた。

 


 


2008年、もう年の瀬ですね。

今年もなんだかんだでいいこと、たくさんありました。

皆様とこうして文面通して出会うことができ、幸せです。遊びに来て下さり、本当にありがとうございました。

来年もよろしくおねがいいたします!!!

 

 

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