1.約束

 


 戦場というにはもう程遠く、そこは鎮まり返っていた。

 見渡すほどの力も残ってはおらず、佐藤はゆっくりと持ち上がるだけ上げた瞼の範囲で周囲を確かめた。案の定、人影も建造物さえ視界に入っては来ない。実際、何かあったのかもしれないが、今の佐藤には見えなかった。
 粉塵が崩れた壁にもたれ掛かったまま動けない佐藤に、幾度となく吹く。死体と認識されたのか、ひっきりなしに手足から蟻たちが登ってきていた。まだ死んではいない。佐藤に時間は把握できなかったが、爆撃と銃声が止んでからも意識は保っていた。
(また・・・あの海が見たい。見れるか。いや)
 見るのだ。もう一度。
 繋がることも、結ばれることもなかった関係。曖昧で緩やかで、綺麗ごと。そんなものに唯一取り付けれた約束。 
 黒煙に包まれたこの上空だって、海のように碧いはずだ。佐藤は薄っすら笑った。頬は引き攣って動かなかったが、笑ったつもりだった。
 その時、
「旬、」
 不意に太陽を遮り、頭上に影が出来たかと思うと自分を呼ぶ声が降りてきた。
「大丈夫か」
 よく知りもしないはずのられなかったが誰だかすぐに判った。佐藤はゆっくり腕を上げ、親指を立てる。
「そうか。すまない、来るのが遅れて・・・・・・この一帯に入ることさえ出来なかったんだ」
 こちらを気遣い怖がらせないよう、ゆっくりと屈んだその人物は佐藤を覗き込む。
「旬?」
「・・・・・・煙草、もって・・・ん?」
「ああ」
 俯いたまま、呟くと彼は少し慌ててポケットを探った。差し出されたのはくしゃくしゃのピース。これだけぼろぼろだとキツイ煙草は有り難かった。
「あさひ・・・お前の部隊、・・・ど」
「お前たち見捨てて、あっという間に前線放棄した。今頃は是雪まで戻ってるだろう」
 底辺に怒りの篭った声音で男は言った。佐藤は無表情のまま、変化の薄い声をじっと聞く。吸い込んだ煙が身にしみるように回る。どうも現実味がない。煙草の味も、目の前の男も。白昼夢のようだ。
 気の優しい友人は佐藤が無反応に黙っていても照りつける日差しから己で影を作り、こちらを気遣いながら戦況を説明していた。短くなる煙草を惜しみながら、口に運ぶとふと声が止んだ。
「どしたん・・・」
 じっと押し黙ってこちらを見つめているようだった。佐藤には見えない。吸った息を吐き出すもの億劫だった。
「ええよ。置いてけ」
 捨てるというより、手から落ちる煙草。声を出すと骨が軋む。見上げる余力は残したかった。海に似た空なら、救われる気がしたから。
「なあ、アサヒ。いいって」
 突き放したくて伸ばした腕を友人は掴み返して、変わらぬ声音で告げる。
「これは、お前の望みじゃない。俺の望みだ。だから勝手にする」
「アサヒ。あんな・・・無理やから」
「俺が連れていく」
「足、あらへんねや」
 佐藤はさして変化のないまま、呟いた。
 ああ、言葉とは人類を変えただけのものだ。口に出してしまうと白昼夢は現実になった。霞む視界に映る先に、かつてあった両足はない。どうして即死ではなかったのだろう。なぜ、中途半端に俺を生かそうとするのだろう。そこまで考えて、失うことを抱えて生きることに慣れていない。
「それがなんだ。俺はお前を生かす。必要だから」
 友人はそれ以降、まったく口を開かなかった。佐藤を背に担ぎ、立ち上がると砂塵の舞う市街地を歩き出す。
「なぁ、途中で俺が死んだらほって・・・けよ」
 彼は答えない。
 薄らぐ意識の中で友人の名を思う。
 朝比奈賢吾。約束の人。

 

 

 

 

ハイリスクです。
 そう言われて、ほいほい手術できる奴は精神的にいかれてるか、マゾなのかどっちかだろう。でも、他に選択肢がない。卑怯な状況だ。やるか、やらないか。
 医者を相手に毒づくのも性にあわない。そもそも、目の前の白衣を着た人間は「医者」と名乗る機械技師だ。いじくるのは人間じゃない。
 そこまで考えて、佐藤はひとつ溜息をつく。馬鹿げてる。今、頭の中で考えていることも、医者と呼ばれる人間を前に話すことも大差ないことに気づいたからだ。決めるのは自分自身だが、なんとも空しい気がした。孤独な老人のようだ、悩みが。
「どっちにせよ、やれって言う訳やしな・・・あいつが」
 苦々しい気持ちだった。抵抗できない。朝比奈の拾った命だ。佐藤は彼の背でせいぜい息をしていただけ。
「勝手に手続きされて、もう明日には手術ですよーって綺麗な看護婦さんに・・・」
「今日だよ」
「やっぱな。すぐにでもって言うと思ったよって、お前なあ!」
 佐藤は横に腰掛けた人物、朝比奈賢吾に噛み付く勢いで言う。
 ここは病院敷地内にある広場で、目の前には噴水、周囲には車椅子を押す看護婦、青々と茂った芝生が眩しい絵に描いたような場所、その的確なテリトリーを計算して配置されたベンチのひとつに座っていた。天気の良さが暢気な時間を作り出すのを手伝っているようだ。
「鳩が逃げたぞ。お前のせいで」
 朝比奈は飛んでいった白い鳩たちを目で追う。
「鳩はええねん!鳩は。なんて?今日?」
「ああ。午後から。旬は相変わらず、女好きなんだな」
「え、ああ、看護婦と婦警は・・・・・・って、あんな」
 からから笑うと朝比奈は、ん?って顔してこちらを見返す。真っ向から見返す瞳に迷いはなく、嫌でも正気だとわかる。
「俺、やるってゆうてない」
「それが?」
 憎たらしいほど冷静に、佐藤の答えを予測していたのだろう、平然と朝比奈は聞き返す。だが、佐藤にはどうしても一つ返事で付き合ってやることができなかった。
 確かに、失った両足は取り戻したい。今、目下に映る自分の足は義足だ。誰もが見れば同情の眼差しだったが、佐藤自身は満足していたのだ。慣れなかった頃はアレルギーを起こしたものの、今ではしっかり生活の一部で活躍してくれている。それもあって、余計に危険だとお墨付きの手術を五年も経った今することなのか、疑問だった。
 それと同時に、「しなくてはならない」理由も十分にあった。
 両足義足では戦争に参加できない。この五年間、佐藤はこの病棟で暮らしている。リハビリも済んでごく普通の生活が出来る今でも。それは国のお荷物という意味を指している。市民の目には晒せない落ちこぼれの生き残り。
 誇らしく戦死することは、徴兵時の契約書に記されている。それでも、こうして佐藤のように生き残るものがいる。仲間はこれを「恥さらし」と呼ぶ。
「旬、生きることに意味は?」
「なんや、急に・・・・・・。まあ・・・、あるからこうして恥さらしとんちゃうかね。俺は」
「だったら受けろよ。約束しただろう」
 朝比奈は苦しそうに最後の部分を搾り出した。
「約束か。覚えてんのか、アサヒ」
「怒るぞ」
 悪気はなかったが佐藤は謝る気になれない。ここでの暮らしは朝比奈が保障してくれていた。あまりにも彼の比率が大きすぎる。
「アサヒ、いい加減に俺のこと構うのやめたら?」
「俺の勝手だろう。生かしたのは俺なんだから」
「もうええって。アサヒがさ、ここにこなくなって俺のこと忘れてくれたら、変化のない毎日にケリがつく。俺かてアホちゃうで?ハイリクスな手術の支払いの為に、お前が何度戦場に行けば済むのかなんて、考えたない」
 佐藤の声は平淡に響いたが、文章として成立するには程遠い無感情さだった。黙った朝比奈の表情はわからない。佐藤は俯いた顔を上げることができなかった。
「なあ・・・・・・。ここで待たすのはもう勘弁してくれ。お前、帰ってこんかったらって思う。代わりに行けたらと思う。だから、もうお前はここに来んって言ってくれ。そうしたら、」
「五年間、そう告げられた。やっと五年経った。今日という日を待ち続けた。なのに旬は諦めろというのか」
 怒り、それとも悲しみ、計り知れない朝日奈の声音に佐藤はますます顔が上げられない。そうか、五年も経った今と思ったが、手術は決まっていたことなのか。
「手術を受けて俺が五体満足になったら、アサヒは休憩してくれる?」
 朝比奈は黙っていた。そんなこと出来る訳がないのをお互い知っている。
「せやんな。わかっとるよ・・・・・・わかっとる」
「旬、手術は今日の午後。受けるからな」
 隣で立ち上がる気配がする。朝比奈はどこへ行くのだろう。
「俺が戻る頃には、お前は元の佐藤旬だ。明日迎えにくるから」
「・・・・・・今でも俺は佐藤旬やで」
 佐藤の声は聞こえなかったかもしれない。朝比奈は去ろうと背を向けた。
 途端に後ろに引っ張られた。
「どうした?」
 思わずといったふうに自分のシャツを掴んで引っ張る佐藤に朝比奈は苦笑した。まるで迷子のような顔だ。
「帰るよ。必ず」
「・・・うそつけ」
「なあ、旬。たまには素直に送り出したらどうかな。出陣の身としてはかなり救われるぞ」
 朝比奈の表情に迷いはない。佐藤はなんだか泣きたい気持ちになって見返した。この友人はなぜ疑問に思わないのか。おかしいだろう?他人のために命をかけた給料を注ぎ込んで、自身は幾度と戦場に赴くなど。
「アサヒ、ごめんな」
「俺を怒らせたいのか?」
 苦笑を消して、朝比奈は真顔になる。佐藤は胸が竦んだ気がして慌ててシャツから手を離した。温厚な朝比奈のそんな顔は滅多に拝めない。そうさせたのは佐藤自身だが。
 それは突然降ってきた。ように感じた。
 朝比奈が俺にキスしてる。
 背を浚う様な力が腰を寄せ、唇に降る柔らかい感触。
「じゃあな。いってきます」
 ゆっくりと朝比奈は佐藤から離れる。名残惜しそうに見つめて、今度こそ背を向けた。
 遠ざかり、もう見えなくなりかけた彼の背中に佐藤は漸く呟いた。
「・・・・・・あ、アサヒ・・・」
 無意識に先ほど朝比奈が触れた唇に手が触れていた。確かに朝比奈がキスをした。俺に。
 有り得ない。
 この戸惑いと友人の気持ちをどう量ればいいのかと、困ったことに少しある幸福感に佐藤は一瞬手術のことを忘れた。
「おいおい、俺、マジやばいでえ」
 佐藤はおどけて笑ってみた。状況を考えれば、友人がどう自分を見ていようと自由だし、好き勝手にする権利がある。拾ったのはあいつ。そりゃ無償で養っているのだ、そういうこともしたって釣りがくる。そこまで考えて、佐藤は卑屈な自身を苦笑する。
 体は完治しても、心はまだあの戦場の廃墟の中だ。
 未だ耳に残る爆音と銃声に、佐藤は静かに目を閉じた。

 

 

 

 

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