きっと、レイは真剣なんだと思う。
 

 シンは手渡されたものを目の前に、ひとつ頷いた。
 これは、友情だ。うん。

「うまくいく!プロポーズから挙式までの完全マニュアル……て」
 
 って、これ、メイリンが持ってたの?
 シンは引き攣った笑みを浮かべながら、一時停止してから大きな溜息をついた。
 いや、真剣な顔をしてメイリンにこれを借りているレイを思い浮かべても、好奇の目を輝かせて貸すメイリンも、側で見ていたクルーたちがどんな顔をしていたかも、
容易に想像はできる。
 だが、本当にシンはそれどころではなかった。
 結婚式をするか、そういうこと全般を忘れていたわけではないし、考えていないわけではなかった。
 ステラには人の経験できる幸せはすべて味あわせてあげたいと思っているし、シン自身がその幸せそうな姿が見たい。
 
 見たい。
 きっと、きっと、その姿に俺は立てないほど感激するだろう。
 駄目なんだ。幸せすぎて、想像できない。してはいけない。今は。

 知らず手にした本を握りしめており、見降ろした時には二つに曲がっていた。
「やっば」
 メイリンに怒られるとシンは焦って、本を元に戻そうと真っ直ぐにして資料を重しに置いた。
「……そんな簡単じゃないんだ……」
 シンの瞳が暗く光る。そっと伏せた瞼の裏に、出かける前に見つめた愛しい少女の顔を思い浮かべた。
 少しやつれたその頬と、着込んで隠していたが体中にある検査の痕。ただ、いつもどおりにそこにいようと必死だったその瞳。
 離れがたい思いが胸をついて、シンは思わず側にいると言いかけた。だが、それはステラに言わせてもらえなかった。有無を言わせぬその瞳が、自分で立てると、そ
う訴えてそこにあった。 
 強がりで言っているのではない、ステラの思い。
 きっと、彼女は戦うと決めている。楯もなしに、たったひとりで。

 だから、俺はしなくちゃいけないことがある。
 俺には、俺の戦いがある。


 ロドニアの研究所で見たあの映像。
 ステラが慕い呼び続ける人物は、シンの知った人物と同じ顔をしていた。
 ネオ・ロアノーク。
 仮面の男。

 男の約束を破った、憎い男。

「どうしてなんだよ……ありえねえよ」
 呟いて、口の中が血の味がする気がした。
 シンは行き場のない怒りのような、悲しみのような、どちらともつかないやるせなさにただきつく眼を伏せるしかなかった。
「ムゥさん……」
 もう、誰も憎みたくなんかない。
 この胸に憎しみも苦しみも抱きたくない。ステラと過ごすことを赦されたその時間を、もうそんな思いで過ごしたくはない。
「ステラ」
 大切に呼ぶ。声にするだけで泣きたい気持ちになった。
 いつからこんなに一人でなくなってしまったのだろう。本当に情けない。友にまで心配をかけて。
「大丈夫。これは幸せに向かうためのことなんだから」
 そうだ。
 もう、失ったものへの悲しみの矛先を向けているのではない。今、なのだ。
 
 二度と、大切なことを失わないよう胸に刻んで、俺は逃げない。
 二度と、失わない。

 シンは握りしめた携帯を深呼吸して耳に当てた。
 

 

 

 

 

 


 ステラの入れたアップルティを飲みながら、ラクスとキラはステラと談話していた。
 小さなリビングはすっかり「二人」の空間になっており、見まわすと初めのころにはなかったMSの小難しいマニュアルや、模型が並んでいたりする。
ステラの願いで用意された水槽の魚たちも、きちんと部屋の一部で生活していた。
 ラクスにとって、目に入れても痛くないほどのステラは、日に日にしっかりと一人の女性へとなっていくようで眩しかった。
「検査はどうですの?」
「つぎ、プラントってとこ行くって」
 ステラはラクスの問いにたどたどしく答えた。黙ったラクスに隣のキラが変わって問うた。
「いつからだい?」
「んと……今度の検診のあと」
 壁にかかったカレンダーを見やって、ステラは言った。もう二週間後のことだった。
「シンは知ってる?」
 変わらない調子で聞くキラに顔をふって、ステラは続けた。
「ううん。まだ言ってない。でも、シン、おしごとで長いから」
「そう……じゃあ、シンがいない間にプラントへ行かなくてはならないのですわね」
「その、ほうがいい」
 やや俯いて、ステラはひっそり笑った。
 その様子は見ている方が苦しくなるような、痛々しさがあり、ラクスは思わずテーブルにおかれたステラの手を握った。
「一緒に、わたくしは行きますからね」
「……だいじょうぶ、ラクス」
「いいえ。これは譲りません。それに、プラントにはわたくしも用事があります」
 握る手に強さをこめて、ラクスは微笑んで見せる。
 教えなくてはいけない。
 生きていくことは、決して一人では叶わないということを。
 ステラを必要とし、力になる人間はシンだけではないということを。
「ステラが、きちんとその運命に立ち向かおうとしていること、わかります。でも、ステラ……考えてみてください。もし貴方が逆の立場で私がそうであった
なら、一人にしますか?」
 真っ直ぐにステラを見つめ、ラクスは紡いだ。届くように願って、その掌をさらに包み込んで。
「……ううん、しない。そばに、いる」
 ゆっくりと瞬いて、ステラは頷いた。
「ステラ」
 ラクスは立ち上がると、腕を広げて小さなステラの肩を抱いた。愛しくて、その頼りない姿が守ってやらなければと思わせて、それなのに意志をもった強い
瞳が誰より生きようと必死で、手を取らずにはいられなくさせた。
 側で見つめるキラは何も言わず、ただ二人の姿を眺めていた。
 寄り添い、助け合うその姿は親鳥と雛鳥のようで、きっとステラの結婚式にはラクスは母のように涙するのだろうと、幸せな想像をしていた。
「嬉しいな。ステラは俺の妹みたいなものだし」
 思わず、そうキラは漏らした。
「そうですわね。血を分けあった者同士ですものね」
 そっと顔を上げてラクスは笑う。シンが聞いたら、障害が増えたと嘆くことだろう。
「ん?」
 ラクスの笑顔にキラも微笑もうとしたその時、胸ポケットの通信機が鳴り出す。
 手に取って、キラは確認すると少し目を細めた。
「どうしましたの?」
「うん。ちょっと、電話してくる」
 キラは顔を振って、笑うとリビングを出た。

 

 

 

「シンかな?」
『すいません、突然』
 キラはリビングを出て、上着を持って外に出ると、オーブの海を眺めながら通信機を耳にあてた。
「いいよ。何かあった?」
 問うと、急に向こうのシンは黙った。その沈黙は迷うような、そんなものだった。
「……今、ステラのところに来てる。でも心配しないで、聞こえない処にいるから」
『……そうですか。貴方にはわかるんですかね』
 何が言いたいかは、わからなかったが、シンが切り出そうとしていることが彼女のことであることは分かった。そしてそれが、あまりいい知らせでなさそう
なことも。
「二週間後にはプラントに行くことが決まっているみたいだよ、ステラ」
『え?』
 やはり知らないのか。
 ついた溜息が白くなる。キラはやるせない思いで一杯だった。
「ラクスがついていくから……大丈夫だと思う。解決方法が見つかったらプラントへ呼ぶとカガリのところに連絡入ってたみたいだから、きっとうまくいくよ」
 ミネルバが回収した元連合のラボからの資料とデータはすでにプラントの研究所と医療施設に回っており、その解決法と対処について試行錯誤がなされていた。
 また、これはキラとアスランにしか知らされていなかったが、クローンの短命についての実験にも生かされそうな成果だとタリアから聞いていた。
『そう、ですか』
「シン。ステラは一人で頑張るつもりだ。君に会いたい、その為に。わかってるよね」
『……言われなくても』
 堪えているようなその声音にキラは通信機を握る手に力が籠った。
 もう、彼には失望も絶望も味あわせたくはない。強く、誰よりキラは思っていた。
『キラさん』
「なに」
『ムウ・ラ・フラガさんについてなんですが』
 切り出したシンの声は緊張からか震えて聞こえた。
 シンから聞くと思っていなかった名なだけに、キラは瞬いて聞き返した。
「ムウさんがどうかした?」
『記憶喪失だったって……言ってましたよ、ね』
 その言い方はまるでキラに否定してほしいような、そんな響きだった。
「うん。あのベルリンの戦場でマリューさんが発見した時は記憶がなかったよ。その後、戦闘の中で記憶を取り戻したんだ」
『そう、です……か。じゃあ、失踪してから記憶を取り戻すまでの記憶って』
「ないみたいだね」
 答えたキラの言葉に、通信機の向こうから沈黙が生まれた。
 取り乱すわけでもなく、泣くわけでもなく、ただ黙ったまま向こうのシンは反応しなかった。
「シン?」
『すいません……頼みがあります。何も聞かずに、俺にムウさんと会わせてくれませんか?』
 意を決したかのようなシンの申し出に、キラは一瞬黙る。
 今のシンならば大丈夫だろう。
 怒りに任せて暴走することのない、守るべきものを手に入れた彼ならば。
「いいよ。君はムゥさんには公式の席でしか会ったことないものね」
『ありがとうございます、ほんと……すいません』
「謝らないで。前に進むためのことなんでしょ?いいことじゃない」
『はい……』
 返事する声が揺れる。
 初めて会った時から、シンという青年の印象は変わらない。
 インパルスに搭乗していたちは知らず、打ち落とし合いをしたこともある。ステラの乗るデストロイを撃墜したことも。知らず、あの岬にある慰霊碑で会った
ことも。
 どことなく、哀しげで苦しそうなシン。
 まるで重たい錘を両足につけて前に突き進んでいるかのような。
 笑えば、きっと誰もが彼を愛すだろうと。

 様々な因果でキラにはシンに多くを言葉にしてやることはできなかったが、強く心で祈りを送った。
 いつでも、力になるからと。

 

 

 

 

 べルリンの戦闘。
 それはシンにとって、今でも夢に見るほど鮮明な記憶だった。

 戦争が終結を迎えた後、ザフトの面々は揃って精神鑑定を義務付けられた。中にはPTSDといわれる心的外傷後ストレスというものを抱える
兵が多く、感受性の強い思春期の少年たちは、残った記憶に悩まされ仕事に復帰できない者もいた。
 武力による間違いがあってはならない。その為に、多くの兵が戦後ザフトから消えた。
 平和の道のりへ、武器もMSもいらない。確かにそのはずだった。だが、現実と理想は結びつきにくく、未だ起こるテロや争いごとにザフト、
和平を締結し残った元連合軍が介入せざる終えない状況が続いていた。
 その為この戦の名残から逃れられぬまま、青年へと育った者たちがいた。

 
 戦う相手のいるうちは、何が正義かなど信じ込めばそれで済んだが、今となっては未だ武器を手に取る理由を見つけ、過去を打ち消すのはなか
なかに難しいことだった。
 武器を握れば思い出す。
 MSに乗れば思い出す。
 戦争とは、燃やすものがなくなろうとも業火の生まれるものだ。
 それは消えぬ火で、今もなおシンの中で灯り続けていた。

 それでもザフトに残り、軍服に腕を通す理由は「自分のため」だった。
 

 どれだけ傷つこうと、間違えようと、逃げはしなかったのがシン・アスカ。
 どれだけの反対を受けようと、決めたことは成し遂げたい。そしてその中で、間違えたことへの贖罪もしていきたい。そう強く願っていた。
 
 ベルリンはそんなシンの一番越えなくてはならない戦場だった。


 多くの人が悲しみの連鎖の果て放たれた劫火に呑まれ、たくさんのものを失い、跡形もなく消えたあの日。
 誰も得ることのない戦争。
 腕の中で眠りいついた傷ついた罪人の少女。
 体中に突き刺さった破片が、まるで彼女へ投げられた罪への罰のようだった。

 なのに、戒められても尚、少女は純真で素直だった。
 なぜ。
 その思いが、シンの心へも業火を注いだあの戦争。

 
 そうか。
 得た人など、誰もいないと思っていた。
 なくすばかりで、残ったのは荒廃だけかと。


 違ったのだ。
 愛する人を取り戻せた人がいたのだ。


 ぐちゃぐちゃの心の中で、シンは必死に探した。
 そうして、この答えにたどり着いたのだった。

 


「何かな、君だろ?呼んだの」
 キラには彼の名で呼び出してもらっていた。
 飄々とした雰囲気をさらに上げているような麻のジャケットにGパンというラフな格好のムウ・ラ・フラガは、シンの前に立っていた。
「・・・・・・シン・アスカ、です」
 シンは自分より上背の高いムウに怯みそうになりながら、眼差しを強めて手を差し出した。
「シン、な。俺はムウだ。よろしくな。ま、初めましてでもないだろう」
「はい」
 快活に笑ったムウはとても男らしく、シンから見ても憧れる部類の男だった。この寒いというのに麻の上着なのは謎だが、ムウは腕を組んで見返す姿も
また決まっていた。
 その無駄のない筋肉と体格に、MS乗りであることはすぐに理解できた。
「そんな、睨むなよ。少年」
「・・・・・・にっ睨んでません!いえ、ああ、すいません」
「面白いヤツ」
 喉で笑うと、ムウはこちらを面白がるような眼差しで見つめてきた。居心地の悪い直接的な視線にシンはついまた睨み返した。
「なんです?」
「いや、お前だろ?アスランと物凄く馬が合わない面白いヤツって」
「い」
 いえ、とは言いにくい。事実だ。
「あいつと言い合いになるやつは珍しいさ。意外とシャイなんだぜ?アスランって」
「は、」
 棒読みで笑いそうになり、シンは息を止めた。
「・・・・・・ま、そんな話しにわざわざここに来たんじゃないわな」
 ムウは息を吐いて目を伏せると、改めてこちらを見返した。
 キラの指定したのは、オーブでも田舎と言われるオノゴロ島奥にある別荘だった。そこは森に囲まれた自然一杯の土地で、シンがバイクで近づいた時には
緑の中に埋もれるように建つロッジのようなものがすでに見えていた。
 聞けば、キラとラクスが孤児の為に設けた別荘で、マルキオ牧師と子供たちも良く訪れるのだそうだ。そして、アークエンジェルのクルーたちも。
 シンはそっと、ロッジのテラスから見える海へ目をやった。
 高い場所にある土地のため、見下ろすように眺められる遠くの海は、ステラと眺める海とは少し色が違っていた。
 不思議だ。
 同じ海なのに。
「立ち話してないで、座ったら?」
 不意に背後からかけられた柔らかい声に、シンは我に返って振り返った。
「サンキュ、おお、うまそー」
 振り返ったそこには優しい笑みを湛えた女性がトレイにコーヒーとサンドイッチを乗せて立っていた。
 アークエンジェルの艦長、マリュー・ラミアス。
 とても女性らしい柔らかさのある声音で、その眼差しも温かさに満ちた人だった。同時に、意思の色の強い瞳からタリアと同じ香りを感じる。
「ムウったら、お客様が先でしょう」
 駆け寄ったムウにマリューは綺麗な顔をお構いなしに歪めると、シンを見て言った。
「座って?なんで、男二人でこの寒いのにテラスで話したいのか私には理解できないけど」
 面白がるような目線で言うと、マリューは笑った。
「悪いな。男と男の話さ。君は中で温まってて」
「はいはい。お邪魔しました」
 トレイから皿を下ろすと、マリューはひらひらと手を振って背を向けた。
 シンはその後姿をなんとなく目で追いかけてしまっており、ムウがこちらを観察していたことに気づいて慌てて俯いた。
「・・・・・・大人の女性もいいだろ?少年」
「少年じゃありませんよ。俺、もうすぐ成人します」
 恥ずかしさからまだ頬が暑かったが、むっとしてシンは言い返した。
「俺からしたら少年さ。マリューはいい女ってことが証明されたな」
「はあ?」
「一人の少女にぞっこんで、もう世界がその子で回ってるって男さえ、見惚れたわけだろ」
「ばっ」 
 こちらを構わず大声で笑うムウに、シンは思わず拳を握り締めて睨んだが、相手は全く本気にせず爆笑のままである。
 掴めない人。
 なんだか、向こうのペースに乗せられてばかりだ。
「会ってみたいな、その子に」
 ムウは言って、ゆっくりとこちらを見た。
 その眼差しは読めない色をしており、急に真顔になった彼の意図を掴みかねてシンはただ見返すばかりになる。

 心には嵐が吹き荒れている。
 
 ステラだ。
“その子”じゃなあない。
 知っているだろう。
 
 ステラだよ。

 見返すばかりのシンの頬に知らず、涙が伝った。
 ムウの表情が驚きに満ちたのを見て、自覚する。慌てて自分の頬を腕で擦ってシンは笑って見せた。
「・・・・・・すいません、なんか俺、何しに来たんでしょうね」
 苦笑したつもりが、泣き笑いみたいになった。
 情けなさと、自分ではどうにもならない心の慟哭にシンは握った拳を緩めることもできずに、からからの喉で笑う。
「最近、ほんと、俺、泣いてばっかで。でも、それって哀しくて泣いてるんじゃないんです。俺、知らなかったことや感じたいと思っていたことに
出会えて、幸せで、温かくて・・・・・・なのに、いつも泣けてきて」
 もう、話すしかなかった。
 黙っていられなかった。
 俺は両手に抱えきれない喜びをステラに貰った。ステラと分かち合った。 
 それなのに、こんなにも俺は無力だ。
 何もできやしない。
 何も分け合えやしない。
「泣いたって、ステラの何分の一も苦しみも悲しみも担げやしないのに!泣いたって、それで許されるわけじゃないのに!」
 どうして、どうしてだろう。
 いつだって、涙を拭い去ってくれるのはステラ。
 愛しいステラ。
 こんなにも、求めるばかりで何もできない俺は。
「でも・・・・・・俺が、俺・・・・・・が、守るんです!俺が、あんたの代わりにだってなってやるんです。俺が・・・・・・っ」
 シンはがむしゃらに叫んだ。
 視界は滲んで見えない。
 もうムウにぶつけているのではなかった。
 
 ふと、シンの肩を大きく強い力が拘束する。
 包み込むような、大きな、大きな胸。

「ムウ・・・・・・さん?」
「お前、最高だよ」
 頭の上で声がした。
 低くて、ゆっくりとした、深い声。
 

 いつの日か聞いた声音と同じ、その声だった。

 

 


まだ、まだですね。

ぼくってほんと長くなる・・・。精進します

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