何時間こうしているのか、もうわからなかった。
それでも、シンはどうしても出て行く事が出来ないでいた。どうしても。
愛しい、あんなにも会いたかった人が呼んでいるのに。
「シン」
その声は優しくて、いつも通りだ。
「シン」
いつもより少し低めの抑えたような声で、
「シン、怒る、ステラ」
まるで怒りを堪えたような・・・・・・、聞いたこともないようなステラの怒った声だった。
勝手に入り込んだ部屋でドアを背に鍵をかけたまま、動かないでいたシンは内心物凄く焦っていた。あんな声、聞いたことない。
いつまでも出て行かないシンに痺れを切らせて怒ったんだろうか。
こんなふうに怒らせたこと、今までになかった。怒るのはいつでもシンなのだ。
(・・・・・・俺が、不甲斐なくて・・・・・・半ば、八つ当たりに、俺が切れるってのが正解かな。でも、ステラが無茶することが多いからだ。うん・・・・・・)
その無理が、彼女の純粋で穢れない心の部分から現れることを誰より知っている。ステラの背負った宿命と共に、それはつきまとうシンにとっての不安だ。そ
んな風にシンが思って抱えていることも、きっとステラは知っている。
だから、こうしてプラントへ実験体になりにくるような行動を、シンの知らないところでしようとしている。
考えれば、考えるほど、情けないのは自分。
いつでも、待っているしかないのは自分。
何も術もなく、ただ閉じこもるしかない情けないシン・アスカ。
どうして、あわせる顔があるだろう。
「怒る、ステラ」
ドアの向こうで呟くように唸るステラの声は、何度か同じ言葉を繰り返して、急に沈黙した。去った気配はないが、怒って諦めたのだろうか。
シンは、ずるずるとドアに背を預けたまま座り込み、膝を抱えた。
懐かしい。
戦時中、何度こうして布団の中で身を丸めただろう。
情けなくて、堪らない。
なのに、誰かに側にいてほしくて、誰かに抱きしめてほしくて。
誰かじゃないか。
ステラ、君に。
そっと苦しい胸の息を吐き出そうとした瞬間、とんでもない音が背後でした。
「シン!!」
ステラの怒号のような自分の名を呼ぶ声と共に。
ずわぐらがっしゃー!
こんな感じ。
そして、背にしていたドアがなくなっていた。ぱらぱらと破片の雪の中、ステラは立っていた。
金色の髪を怒りにゆらゆらさせているように見えた。背後から差す日差しによって、彼女はオーラを纏っているようにも見えた。
ぐっと睨むようにして怒りを湛えた瞳は、シンを捕らえたまま動かない。
「怒る、ステラ。シン、おこる!」
黙って見上げたまま何も言わないシンに、耐えかねたようにステラはそれだけ叫ぶとわなわな震える肩を、拳を握ることで抑えているようだった。
そして、目にも留まらぬ勢いで、床に両膝をついた。
シンにはそれはまるでゆっくり見えて。
ふわっと、金色の小さな光りが胸元に降りてきたようだった。
「ばか!!」
ステラはシンの胸倉を掴んで寄せると、腕を引いて思い切りシンの頬を叩いた。
景気のいい音が質素な廊下に響く。
残響の後には、ぶち破られたドアの跡と、差し込む日差しと、シンとステラだけになる。
「・・・・・・ばか。ばかあ」
瞳は怒ったままだ。
きつくこちらを睨んだまま、ステラは胸倉を掴んだまま揺らした。次いで赤紫の双眸から透明な涙が溢れるように零れだす。手を差し出して拭ってやりたい衝動に
駆られたが、鉛のように現実の腕は重かった。
頬はじんじんと熱を持って痛んだ。たいした痛みでもないのに、今のシンにはどこで負った傷よりも痛んだ。
「ちかい、した、ステラとシン、ちかい!」
逸らされない瞳。
強い言葉。
「なのに、なのに、どうしてにげるの。どうしてきたの。どうしてここにいるの」
次から次へと流れ落ちる大粒の涙は、シンの胸倉を掴むステラ自身の手に落ちた。弾いては、弾いてはステラの手を濡らした。
シンは、言葉ないまま、じっと自分だけを射抜くステラの瞳を見つめた。透明な世界に自分自身が映りこんで、涙と共に流れ、またそこに映った。己のその情けな
い顔にどうしても口が開かない。
「ステラのこと、しんじられない?ステラじゃ、むりと思ってる?」
シンは唐突に気づく。
気づいて、息を呑んだ。
いつの間にステラはこんなにも大きくなっていたのだろう。
言葉も、感情の意味も、自分の行動ですら曖昧で掴めなかった彼女が、今目の前で揺るがない意思の強さで言葉を紡いでいる。
ステラにしか話せない、ステラだけの言葉で。
ごめんな、ステラ。
君はこんなにも一生懸命に俺へ届けようとしてくれているのに、俺って奴は君が愛しくて堪らない。
愛しくて、やっぱり、どう考えてもこれしかできない。
「・・・・・・!!」
捕まれた胸倉の手をシンは押さえつける様に自分の手を重ねて下ろさせた。
それから、ステラの意思など全く無視した力で小さな頭を掻き抱くように寄せて口づけた。
どん、どんとシンの胸をステラの手が何度も叩いたが無視する。
息もできない。
互いに目も閉じずに睨みあうように見つめあう。
「ぅ」
小さくステラが苦しそうに息を吐いた。
シンはそれでも許さずに押し倒した。気づけばステラの抵抗は止み、白く細い腕は力なく床に落ちた。
止まない涙がひたすらにステラの頬を濡らしては消える。シンにはそれを見つめる以外、応える方法が見つからなかった。言葉にできるような思いがひとつも
浮かばない。
言葉なんか、どうでもよかった。
信じろという君に、俺は言葉で伝えられない。
そうじゃないんだ。俺は出来た人間でもなければ、ステラのヒーローにもなれそうにない。誓いは俺の為のものだ。君がどこへも行かないように。
君が、消えてしまわないのだと信じられるように。
どうしてこんな陳腐なことが言葉に出来るだろう。
「・・・・・・シ、ン」
口唇は合わさったままだったが、ステラは囁くように呟いた。
「ごめん」
言って、シンは腕を突っ張ってステラから身を離す。持ち上げた腕から壁の破片がまたぱらぱらと落ちた。
「あやまるのおかしいよ」
「・・・・・・うん」
やっぱりいつもよりは厳しいままの瞳でステラは言う。
それでも、シンのことを見つめたままで。
「どうして、泣くの」
重力に従順な水滴はゆっくりとシンの瞳からステラの頬へと落ちていく。
「・・・・・・ステラのじゃないよ、これ」
ステラは言うと、自分の頬を触ってほんのり微笑んだ。
「シン。シンはステラが必要なんだね。ステラ、死ねないね」
すうっと手のひらをそのままシンの頬へ移動させると、シンには出来なかったことをステラは自然にする。
優しく、温かい手でシンの涙を拭った。
「こんなにも、怒ったの、はじめてかも」
ステラは笑う。
どこにでもいる十代の女の子の素顔で。
「怒ると、お腹がすくんだね」
大きな瞳いっぱいにシンを映して、きらきらした光りを宿して言う。
「ドア、壊しちゃったけど・・・・・・ごはん、くれるかな?ステラ、入院無理かな」
涙が止まらない。
「ステラ」
嗚咽と重なって、きっとステラには聞こえない。
「やっと呼んでくれた」
変わらない。
出会った頃から、ずっとずっと変わらない笑顔。
俺はこの笑顔が見たくて、安寧の中笑う君が見たくて戦った。必死に戦った。己が憎しみや殺意に飲まれたとしても、深淵を覗き込むことになろうと、君の
その笑顔を守りたくて戦った。
こんなにも今、側にある。
何度、この奇跡を疑ったろう。こうしてまた形のないものに祈るのは何度目だろう。
「ごはん、食べようね。いっしょに」
君なしでいた頃の俺は、一体どうしていたのだろう。
ふと、滲んだ視界のままシンはそう思った。
シン、がんば!
ぼくも、がんばれー。げふんげふん。