青い空も、白い雲も、少し遠くを見つめれば欲しかったあの海も、ちゃんとここにはあるの。


 でもね、今では手離せなくなったものがあるんだ。
 海よりずっと、ほしいものなんて、あると思わなかったよ。シン。

 ねえ、ステラはここはいや。

 だって、ここには太陽がないの。
 ここには、貴方がいないの。

 

 

 そっと差し出された一枚の写真をステラは恐る恐る手に取った。
「あ……」
 小波が寄せて、引いていく。
 音がする。記憶の海に時の波が寄せては返す音がする。
「……だれ、これ」
「アウルだよ、ステラ」
 記憶が少しずつ戻ってからも、本当ははっきりとは思い出せない。けれど、辿りつく単語に心はいつも温まり、きっとあったであろう
時間を思って懐かしく思うことができた。
 夢の中で会えた仲間の顔はぼんやりしているが、愛しくてなくせない大事なものだった。
 だから、写真を見た瞬間の衝撃にステラは息も出来なかった。
「……これが、アウル」
 言葉は口をついて出るのに、アウルだと頭は認識しているのに、そこにいて行儀良く写っている少年に懐かしさが沸かない。もやもや
とした気持ちがして、何故か酷く違和感があるのだ。
 もっと、こう、はっきりとした感動をすると思っていたのに。
 自分の反応にステラは戸惑っていた。ちゃんと思い出したくて仕方なかったはずなのに。
「それも仕方のないことかもしれん、ステラ」
「先生」
「ステラ、君は、いや君達“エクステンデット”と呼ばれていた子供達はね、記憶を操作されていたのだよ。君がこの子を見て感慨が
沸かないのも、知っているはずなのに知らない、この子じゃないと、そう思ってしまうことも全て記憶を改ざんした後遺症のようなも
のだかもしれない」
 ダットの言葉は難しくてステラには届かない。ただ、わかるのはステラにはこの写真を見ても、何も感じることができないというこ
とだけ。
 じっと、ただじっとステラは必死にその写真を見つめた。
 水色の髪、海と同じ瞳。人懐っこそうな口元は甘えたの色が伺える、そんな幼い少年。
「……にも、……なにも思い出せない」
 確かにあの時、夢の中でステラの背を押してくれた。
 確かにあの時、いつもみたいに笑ってステラのことを見てくれた。
 さよならじゃない、そのうちこっちに来たら会えるからって。お前はまだこっちじゃねえよって。がんばらないと、怒るぞって。
「……これが、アウル……」
 研究所のテラスにはステラとダットの二人だけ。
 ステラは歯を食いしばって涙を堪えた。泣いてはいけない。自分が悪いのだ、諦めてはいけない。きっと、きっとわかる。わかる
はずなのだから。
 こんなおすましした顔のアウル、ステラは知らない。きっと、知らないんだ。そうでしょう?アウル。
「ステラ」
 ダットは俯くステラの小さな頭を撫でてやる。手に収まりそうなその頼りなさにダットは悲しく目を細めた。
「さっきの話だけどね。その写真は確かにアウル・ニーダ君で、君の仲間だった子だ。あのロドニアの施設から出てきたデータで判明
した。きっと連合軍に連れてこられる前の写真だろう……」
「連合軍、」
「そうだよ。君は、地球連合軍第81独立機動群“ファントムペイン”と呼ばれる部隊にいた兵士だ」
 ファントム……言葉の螺旋がステラの芯を駆け抜けてゆくようで、激しい頭痛が急に降りてきた。
「うう、うぁあ」
 痛みに踊るステラの肩をダットは押さえつけながら、それでも声音は変えずに優しく続けた。
「思い出そうとしなくていい、けれどその記憶と向かい合うことは君にとって必要なことだ。いいかい、ステラ。治療で体は治るかも
しれない。しかし君のような経験をした子供が陥った本当の障害は、その心の中だ。わかるか?」
 必死に頭を抱えてステラは顔を振った。押し寄せるのはもはや痛みだけで、握っていた写真がしわくちゃになるのに、力を緩めるこ
ともできずにいた。
 手の中でくしゃくしゃになっていくアウルの笑顔に、ステラは眩暈を覚えた。
 知っている。
 この感覚。
 このなんとかしたいのに、どうしようもない感覚。まるで手放していくような。抗えない力に奪われていくような。
「もう、そんな負荷は君にないんだよ。ステラ、今の君から奪うことなんて誰もできない」
 ダットの掴んだ腕が痛かった。
 でも、その感覚だけが現実にステラを引きとめているような気がした。
「ステラ!君次第なんだ。君にしか奪うことも、引き止めることもできないんだよ」
 食いしばった口唇から血の味がする。それがまた少し現実に自分を引き戻してくれるようだった。震える手を握り締めて、ステラは
顔を上げた。
 そう、約束した。
 


 すぐだよって。
 ちょっと、おるすばんって。

 

 そう約束した。
 こんな遠くまできて、シンをひとりぼっちにして、そうまでしてここにいるのは。
 ちゃんと、向き合うため。向き合って、ステラがステラでいられるようにするため。

 深く深呼吸して、もう一度手にした写真を見下ろした。

 しわくちゃの写真。
 小さな、小さな少年。
「う、う……ごめ、ね……ごめん」
 一生懸命に写真を手で伸ばして、ステラは繰り返した。
「ステラ」
 優しく背中を撫でてくれるダットをステラは見上げて、訴えるように続けた。
「教えて。あのこ……あの子は、あの、研究所の……試験管に」
 ステラは息苦しい喉元を押さえて、喘ぐように言った。黙っていたダットも、静寂を破るように口を開いた。
「ああ。回収された遺伝子の中に彼の生本が奇跡的に生存していてね。ここに運び込まれた時はあの溶液から出せないかと思ったが
今ではああして元気に遊びまわっているよ。ただ……」
「記憶が……ある、んだね……アウルの」
 驚いて口を閉ざすのはダットの番だった。
 真っ直ぐに見返すステラの双眸は、もう冷静だった。顔色も悪く短く息をしていたが、震えも治まり落ち着いていた。それが返って
いつもの彼女でないように見えた。
「クローン技術の、着手のようだったよ。強化人間の次はね」
「それで……」
 ぶっきらぼうに話しかけ、かまってほしそうだった少年を思い出してステラは微笑んだ。写真では思い出せない。でも、あの少年を
見ているとたくさんの断片が蘇る気がした。アウルの表情すら、わかる気がした。
 それならば、戦おうではないか。
 とことん、私が私に出会えるまで。
「先生。わたし、泣かないよ」
 赤紫の瞳が凛とした輝きを灯し、誰かを見つめているようだった。ここにいるのではない、誰かを。
「わたしに会うまで」
 知らずとダットは苦笑した。
 この純粋で綺麗な女の子が見つめるのは、あの生意気な青年だ。
 思い出すと、その未来が明るい気がした。例え閉ざされようと邪魔されようと、あの赤い瞳を思い出すと。

 

 


 
「……こんなのってさ……ほんと、ないよ」
 離れたテラスにいるステラを見つめ、シンは呟いた。
 好きな子が泣いているのに。こんなに近くにいるのに。側に行って抱きしめることも叶わないなんて。
「俺、何してるんだよっ」
 悔しくて、握った拳を壁に叩き付けたが、何度そうしてもどうしようもない悔しさが込み上げてきた。
「おい。いい加減にしろ。みっともない」
「……んだよ!あっち行ってください」
「貴様に命ぜられる覚えはない」
 イザークは鼻で笑うと、そっと視線をテラスに向けた。
 気持ちはわかる。だが、ここに入って治療をするということはああいうことなのだ。悲しいことも、目を背けたくなる事実にも、
向き合って受け入れなくてはならない。
 そして、乗り越えてこそ、その過去に勝つことが出来る。イザークはそう信じている。だからこそ、この研究所を今もおいてこう
して発展させているのだ。
「お前も、しっかりしろ。ステラはあんなに頑張っているというのに、貴様ときたら陰でべそべそと……恥ずかしくないのか」
 呆れた調子で、イザークは隣でまだ半泣きで悔しがっているシンを見下ろした。
「あ、あんたねえ!」
「言っておくが、お前の気持ちなんぞ分かりたくもないぞ」
「だーっ!なんだ、何なんだ!何しに来たんだーっ!!!」
 最もなシンの怒りにイザークは飄々と鼻で笑い、肩を掴もうとしたシンを避けて身軽に踵を返した。
「せっかく顔を見に来たんだ。俺は行くぞ」
 さっさとテラスに出て行ってしまうイザークにシンは唖然となる。
「……って、え?ちょ、ちょっと!」
 行きたくても行けなかったのに!なんだ、あいつは!いとも簡単に側にいきやがってー!!
 しかし、行っていいのか。いいのだろうか。
 シンは熊のように行ったり来たり、行ったり来たりと一人で繰り返す羽目になる。
「……バカじゃねーの」
「!?」
 突如聞こえた声にシンは固まった。
「ステラ、趣味わっる」
「!!?」
 次いで聞こえる台詞に動けないシン・アスカ。
「…な……なんだ、と、こんのイザーっ……え?」
 振り返って思い切り怒鳴りかけたシンだが、そこには当の本人が見当たらない。シンにはどこがいいのかわからない銀髪おかっぱの
姿はどこにもなかった。
 代わりに、見下ろすと足元にチビっこいのが生意気にも腕を組んで立っていた。
「お前……」
 シンが問おうとすると、その小さな少年は品定めでもするようにシンの足元からうろうろと見上げた。
「……背、ないし。筋肉も不足気味。おまけにその寝癖。おしゃれのつもり?なら、お前の存在が“お”なしのシャレだな」
「何なんだ!次から次へと!つーか、お前ムカツクぞ!どこかで聞いたような台詞ばっかり言いやがって」
「はっ、同じこと言われる前に直せよ」
「背、背は伸びたんだぞ!」
「へえ、それで?じゃあ、もうそれ以上見込みないね」
「チビに言われる覚えはないぞ!」
「おれはこれからでかくなるし。見込み十分だろ、あんたよりは」
「な、な、な」 
 シン・アスカに大人気ないの言葉は辞書にない。ことにした。
「チビが大人を見下すなーっ」
「意味不明。俺、見上げてますどー」
「態度のことを言ってるんだあ」
「言葉にしなくちゃ、伝わらないぜ」
 小さな少年は生意気に鼻で笑うと、組んでいた腕を解いてシンの前まで歩み寄った。勝気な水色の瞳を鋭くさせ、シンを挑むように睨んだ。
 なんだろう。
 自分よりもずっと小さな体から、異様な殺気をシンは感じた。
「……あんたなんかおれは知らない。でも、ぼくは知ってる。見てみたかったようだしね。自分を討ったヤツの顔」
「え?」
「どうってことなさそうじゃん。へぼそう」
 真剣な眼差しから一転して少年はからかう様な瞳でシンを見返す。一瞬生まれたあの殺気にシンは身構えていたが、こうして毒を吐く姿は
やはりただの少年に見えた。
 思いなおして、シンは顔を振った。あるわけがないじゃないか、こんな小さな子が戦争を経験したかなんて。
「ママとはぐれたか?そんな口利いて、構ってほしいんだな」
 シンは少年の表情が硬くなるのを見て、にやりと笑った。やはり幼いチビは向こうの方なのだとほくそ笑んで。
「やっぱりな?ママ、一緒に探してやるよ」
「……っうっせえ!この寝癖ヘタレヤロー!!」
「った!」
 思い切り少年に膝を蹴り上げられ、シンは不覚にも食らって膝を抱えた。涙目で顔を上げた時には少年の背はもうテラスの奥へと消えかけ
ていた。
「なんだ、あのガキ……たー、思い切り蹴りやがって。何だったんだ」
 シンは膝を摩りながら、途方に暮れた気分で溜息をつく。日の差し込むのを見て、そっともう一度明るいテラスのほうへ視線を動かした。
 ステラ。
 声には出さずに、視線の先にいる愛しい人の名を呼ぶ。
「病的、だな」
 苦笑してシンは頭を掻いた。
 その細くて白い腕が時にシンを温め守ってくれることも、明け方に嫌な夢を見て目が覚めても隣で離れずにいてくれることも、どんな些細な
ことにも感動して笑ってくれることも、シンの弱く醜い闇ですら手を繋いで歩いてくれることも、すべてがこうして遠くから眺めているだけで
も感じることが出来る。
 儚くて、本当は現実ではなく夢を見ているのではと。
 いつ業火に焼かれ、現実を突きつけられるのかと。そう思っても、ステラを思うシンの気持ちは至っていつでも人間的だった。

 抱きしめたいとか。
 側にいたいとか。

 ……抱きしめたい、とか。

「まずいなあ……俺、苦手なんだってば。我慢とか」
 シンは目に映る光景に悩ましい溜息しかつけないでいる。
 イザークときたら、シンには見せもしない笑顔でステラと絶賛会話中だ。嫉妬を通り越して尊敬の念がわく。
「よし、性に合わないことはよそう」
 ひとつ頷いて、シンはテラスに足を踏み出そうとした。


 ジャキ。


 聞き覚えのある音。
 そう。戦場で何度も聞いた音だ。

 聞こえる前に、己がそうせねばならない。その音。

「なんのつもりだ。くそチビ」
「おれはガキなだけだよ。あんたのことだよ、チビはね」
 ゆっくりとシンは目を細めて顔を声の方へ向けた。はっきりとした怒りを込めた双眸で少年を振り返る。
「……言っておくけど、俺、ド短気で有名だぞ」
 少年は微笑みを浮かべて、応える。
「すぐやられる、でも有名なんじゃね?」
 シンは冷ややかな瞳で少年を見つめた。その小さな両手に掴まれた銃には目もくれず、ただその水色の瞳を見つめた。
 震えてもいない。銃口も下がっちゃいない。経験上、ざっとすぐにそれが本物の銃かどうか目算する。形状、構え方、見れば素人かど
うかすぐにわかる。しかし、その少年の様はシンの目に戦場を思い出させた。
 アカデミー上がりの、この間相手したミネルバの新人たちよりよっぽど隙がなかった。
「そんなもん、どこから持ってきた?」
 唸るようにシンが言うと、少年は声を上げて笑った。
「マジにしてるんだ?」
 首を少し傾けて、少年はシンの瞳を覗き込む。何かを探るような瞳はほんの少し揺らぐように瞬くと、すぐに元通りの勝気さを取り戻
してシンを睨みつけた。
「玩具だよ?お兄ちゃん」
「どうだか」
 言って、シンは少年との間合いを詰め、背後に回り込むようにしてその幼い腕を取った。
「やるね」
 少年は言ったかと思うと、シンに掴まれた腕に自分の手を重ね、跳ねるようにして身を捻りシンの背に背をあわせた。その反動でシン
は思わず少年の腕を放した。
「このっ」
「バーカ」
 身軽にシンの背から少年は着地すると、無駄のない動きで銃口を一瞬にしてシンの額で静止させた。
「……はい、死んだ」
 言って、少年は銃口を軽く動かして撃つ仕草をする。
 シンは本気で目の前の少年が恐ろしかった。戦後二年は経つが、シンは軍人だ。戦場で幾度と戦ってきたのである。そのシンがこんな
小さな少年に後ろを取られ、いとも簡単にチェックメイトである。
 この事実を、冷静には受け止められなかった。
「お前は誰だ?」
「怖い顔しちゃって……。おれはアウル、アウル・ニーダ」
「アウル……、アウル?」
 シンは耳を疑った。聞いたことのある名前だ。それも愛しい彼女から聞いたその名だ。
「ま、おれじゃなくて、ぼくのほうでしょ?あんたが知ってるの」
「意味が分からない。お前、本当は中身オッサンとかなのか?」
「頭わっる。ほんとステラの趣味疑う」
 アウルは呆れたように言うと、銃を片手に弄びながら適当な口調で続けた。
「ここには……ここには、ママも、銃もないよ。本物の」
 言い切ると、アウルは背を向けて歩き出す。
 シンは動けずにその背を見送る。胸がざわついた。記憶の中で二つのピースが目を背けたくても重なってシンの脳裏に焼きついていた。
 ステラに出会ったあの日。
 デオキアの街で、起きたあの始まりの日。
 少女を守るようにしてシンを睨んでいたその瞳と、銃口を向けた少年の瞳。

「同じだっていうのか……」
 
 シンはただ、そこに留まって直面した事実にどうしようもなく呟くしかなかった。

 

 

 

 


ちゃんと着地するのか・・・。するのか。

させます。ガンバリマス。

inserted by FC2 system