「はい、わかりました。ええ、では明日」
レイは通信機のボタンを押し、胸にしまうとこちらを窺っていいたシンを見返した。
「今のアスランさん?」
「ああ。俺たちの完成した建築プランを最終チェックして明日地球側に持って行くんだ。向こうも用意してくれているデータがあるからな。
彼に立会いを頼んだんだ」
明日は大事な日である。ずっと徹夜で作り上げた建設プランを地球側の上層部と話し合い最終決定する。そこで実行の命が下ればついに
建設着手に漕ぎ着けられるのである。
そうすれば、待ちに待った施設の完成もあと数ヶ月もすれば叶う。その大事な会議には全賛成票を取れるようアスランに同席を頼み、
レイは万全の体制を整え、こうして親友宅で今は束の間の休憩を取っていた。
「あの人が戦後、ザフト側に復隊するとは思ってなかったなー」
シンはレイの淹れた紅茶に浮かんだハーブを見つめながら、呟いた。
「アークエンジェルにいつくもんだとばっかり、思ってた」
「まあな。きっと、今やザフトは軍ではないようなものだ。ミネルバもアークエンジェルも同じってことなんじゃないか?」
アスラン・ザラにとって、きっともう居場所はどこにいても確固としたものがあるるということだろう。フェイスのバッチをつけて単身
ミネルバに着任してきた時のように、迷い煮え切らない顔で居場所を選ぶことなど、もう彼には有り得ないということだ。
レイはほんの少し表情を緩めて、それが自分にとっても同じことを自覚した。不思議なことに、デュランダルの世界がどこにもないのに
レイはこうして居場所を見つけ、生きているのだ。あんなにすべてだったものが失われた今でも。
「だよな。ラクスさんも議長になったし、皆それぞれあの戦争から学んだってことだよな。未来の為に自分が何をしていくか」
「シンにしてはまともな意見だな」
「バカにしてるな?俺だって少しはオトナになりましたー」
「……そうかもな」
「ムカツクなーっレイこそじじむさいぞ」
ふてくされたシンは口を尖らせた。いつもよりやや元気がないが、先ほどよりは落ち込み具合が払拭されたように思う。レイはひとつ嘆
息してカップを手に取った。
「地球側はオーブ代表のカガリ氏と大使のマリュー氏が会議に出席してくださる。後は頭の固い地球の国際議員連中だが彼女達なら抑えこ
んででも可決させてくれるだろう。心配するな」
「ああ」
シンはただ短く頷いた。その言外にある彼の感謝の想いにレイは目を伏せる。
昔から言葉数が少ないせいかレイには頼んだ覚えのない妬みと不審で寄り付くものが少ない。そんな中、このシン・アスカという男だけ
は出会った時から変わらぬ可侵な奴だ。そんな彼が、言葉少なさを意図せず、コミュニケーションの乏しいレイに言った事があった。
お前の気遣いに救われたことが何度もある、と。
デュランダルの為だけに動き、生きていたレイにとって、他人にそんなことを言われるなんて思ってもおらず、シンのそれが自分に対す
る信頼だと知った時、心で何かが溶けた。何故、やらずといいことをわざわざするのか。他人のために己を省みず犠牲を払うのか。シンと
いう男といると、そうしたことを勝手にしてしまう不可解な自分がいた。その意味が、溶けたその中から浮かんだのだ。
俺は俺の為にしている。
それは、シンも、仲間も、自分自身の守りたいものの中にあるからだと。
「……ありがとう、シン・アスカ」
レイはパイを頬張るシンに聞こえない程の声で囁いた。
「ん?はんはゆったか」
「いや。口にものを入れたまま喋るな」
「へーへー」
「で?お前の大事な姫がこっちへ帰ってこれる準備は順調に進んでるわけだが、王子は何をお悩だ」
「ぶっ」
シンは思い切り咽ると、胸をとんとん叩いた。涙目でこちらを睨むと変な声で叫んだ。
「なななやんでなんかねー!お、おおお、俺はべつにっなにもしてないっ!」
フォークをレイに突きつけ顔を赤くしたり、青くしたりしながら言うシンにレイは内心、さっきの礼は取り消したいと思ったが咳払いひ
とつで忘れることにし、シンの目の前に飛んだパイの残骸を丁寧にナフキンでふき取った。
「じゃあ、何が最低なんだ。言ってみろ。怒りはしない」
「れ、レイ……」
「助けもせんが」
「レイーっ」
もはや半泣きのシンにレイは冷やかに目をやると、考えるように顎を触ってからルナマリアがするように“にっこり”微笑んでみた。
「わかったぞ。浮気したな?あのルナマリアが言ってた新人と」
「い」
「それは最低だな、シン」
「ちがーうっっ!!!してない!するか!んなもんっつーか、その顔やめろーっ!!」
大仰に叫んで怒るシンにレイはその笑顔を外して無表情に戻ると、不服を込めて言い返した。
「なんだ、言いやすくしてやろうとしたのに」
「どこがだーっ」
「お前という奴は本当に相変わらず空気が読めんな」
「お前のことだーっ」
「……シン、近所迷惑だ」
「っ……」
口をぱくぱくさせて震えるシンを今度こそレイは声を上げて笑ってやる。いいストレス発散だ。満足してレイは座りなおした。
「まあ、冗談はこれぐらいにして。まさか浮気ではないのだろう?」
「バカ言うな」
シンが浮気など出来る男でないことも、ステラ以外がそういった範疇に入ることが今後ないのもレイでなくとも彼を知るものならわかる
ことだ。しかし、同時に彼が優しく、その為人を拒むことができない性格なのも等しく知られていることだ。
ステラがプラントで過ごすようになって、もう半年。施設の完成に着手できたとしてもあと半年は待たねばならない。日に日に迷子のよ
うに影を纏うシンは、誰から見ても寂しさを隠せなかった。
「お前の求める温もりは俺にはないものだからな……持っていたら貸してやるところだが」
目を伏せてレイは言う。友人であり、仲間としてはこんなとき代わりになってやれればとも思う。だが、レイにはレイの出来うる力の貸
し方がある。だからこそ、法案を頼み込んで受けさせてもらったのだ。その思いはルナマリアとて同じことだった。
「……ぷ」
真面目に思案していると、シンがじっとこちらを見つめた後、噴出した。
「なんだ」
「は、はっはは!レイ、それ……マジで言ってくれたの?」
「どういう意味だ」
「はは、いや、持ってたら貸すってマジかよ、あははははは」
なんて奴だ。
レイは不機嫌にシンを睨んだ。
「それ、お前が女だったら胸貸してくれるってことだろ?お前がなー、有り得ないなー」
「シン?俺を怒らせたいのか?この至って真面目な友人の思いを踏みにじるとはいい身分だな」
「ごめん、ごめん、でも想像したらさー、あははははは」
レイは無言で腕を組んでシンがひとしきり笑い終えるのを待って言い放つ。
「お前が大戦中にした乱行、ステラに隠しているルナマリアとしたこと、ステラを隠し撮りしたことがあること」
静かにすらすらと言い連ね、止めを刺す。
「今なら選ばせてやろう」
「れ、れれ、いや、証拠ないし!はは、ってステラに会えなきゃ言えないだろーっだ」
「ふん。俺を誰だと?」
数分後。
「世界で一番怖いのはレイ・ザ・バレルさまです」
「よし」
シンはすっかり歯向かう気を失くしてレイの前に消沈した。
「だーっだからお前、一体何しに来たんだ!」
突っ伏していたシンは思い出したように顔を上げると、紅茶を淹れなおして楽しんでいるレイを睨んだ。
「手土産持って、慰めに来てやった友人にその言い草はないのではないか?」
「慰めが悪意にすりかわっとるわー!」
電話をきる前、アスランは受話器の向こうで少し言いにくそうに、話を聞いてやれよと言い残した。そう、彼は聞いてやろうとして酷い
目にあったのだ。酒は人を駄目にするとしか言わず、その時の詳細は当事者にしか分からず仕舞いだが。
シンは周囲の全ての人に心配されている。当の本人は気づかれまいとしているようだったが、その努力は無に等しい。纏った陰鬱な影は
誰の目からも見て取れてしまうのだ。
「サラ・リノエ、だったか。少しあれから調べてみた」
「え?」
「ルナマリアがしきりに気にするんでな」
レイは驚くシンの間抜けな顔に一瞥をくれてやると、不機嫌に語っていたルナマリアの顔を思い出す。
「戦後の地球でえらく事業を成功させているコーディネーターとしては異例の資産家令嬢だそうだ。ご両親はオーブに移住していて、彼女
はアカデミーに入るのにプラントへ留学し、今は念願のミネルバ配属……ということのようだが」
その事業というのが、各地の戦争難民をスカウトしオーブに作った工場での生産員として雇うという戦後の復興を助け、働き口を担う重
要な役割を果たしているものだった。またそれは、コーディネーターが運営しナチュラルもコーディネーターも厭わず雇うという理念から
地上で新たな親和を勝ち得た事業だった。
ルナマリアに言わせれば、ハイエナ事業、とのことだが。
「お前のことをどこで知ったと聞いた?」
「え……いや、詳しくは話してないし、聞いてないけど……入ってからだろ?ミネルバに」
「それが、そうでもないようだ。アーモリーワンのようだ」
「アーモリーワンって、もしかしてミネルバ進宙式の日?確かに街には出たけど会ってないぞ」
「覚えていないだけじゃないか?彼女はアーモリーエワンに住んでいたのは間違いない」
シンは思い出すように唸っていたが、やがて瞬いて声を上げた。
「ああ!もしかして俺が痴漢と間違えられた……あれかな」
「思い当たることがあるなら、それかもな。とにかく、彼女の思いは憧れだの、ちょっとしたお遊びだのということではなさそうだという
のがルナマリアの見解だ」
シンはぎくりとしたように肩を躍らせた。何か思い当たる節があるのだろう。レイはやれやれと溜息をつくと呆れた瞳で続けた。
「とにかく。サラ・リノエの思いは結構執念深そうだということだ。お前が一番実感しているのかもしれんが……厄介なことにならないう
ちに、はっきりキッパリと彼女にはお前から言ってやるべきだ」
「言ってやるって……」
「俺はステラしか愛せない!!!お前などアウトオブ眼中だ!」
急に立ち上がって拳を握ったレイに驚いてシンはソファからずり落ちる。
「……by ルナマリア」
冷静に言って座るレイに今度はシンは乾いた笑いを漏らす。その頬は引きつったままだったが。
「まあ、言い方は色々あるだろうが多少きつく言わんとお前の場合、伝わらなさそうだからな」
「そんなこと言ったって」
「どうせ大方、すでに告白されて押せ押せの先手必勝されてしまっている状況なのだろう?」
「お前はエスパーか?」
「コーディネーターだ」
「知ってる」
疲れたように言うシンにレイは同じように合わせて、追い討ちをかけることにした。
「具体的に何された?」
何の感情も乗せずに聞くレイにシンは諦めたように答える。
「……その、まあ、俺が体調悪くて、送ってもらったみたいで……気が付いたら家に上げてて、看病とか……」
しどろもどろ言うシンに内心レイは大きな溜息をついた。なるほど弱っているところを巧妙に突いた手段である。恋愛は知らずと駆け引
きしてしまうものだとルナマリアが言っていたが、そのサラという子はステラという強敵を知りつつ、打てる最も効果ある方法で向かって
いかねば勝ち目はないと自覚しているということだろう。
女の本気とやらはMSの可能性よりも、秘めた物凄いパワーだとレイは嘆息した。
「でっでも!手は出してないぞっなんもやましいことはしてないっ」
「お前はしなくても、その子はしてくるだろう?最近の子は積極的だと聞く」
「レイ、何歳の発言だよ……って、何も、マジでしてないって。抱きつかれたくらいで」
「してるじゃないか」
「やっぱ……まずい?」
「それなりにまずいだろうな。俺は気のない女を抱きしめたりはせん」
きっぱり言うレイに恨めしそうな顔でシンは言う。
「不可抗力だって」
「お前の場合、気付かずに優しくして誤解を生むからな。というより、お前はスキンシップを好みすぎだ」
「そっそんなこと」
あるのだ。家族を失い、仲間と呼べる者達を手に入れるまで孤独な戦いをしてきたからかシン・アスカという人間はとても寂しがりで人
の温もりに飢えたところのある奴なのである。
「俺には全く理解できん」
言うと、シンは反撃したかったのか仏頂面で言い返した。
「それはレイが知らないからさ、家族とか友達とはまた違うっていうか…知ったら……ほしくなるよ、やっぱ」
「知らんことはない」
レイは憮然とした様子で呟く。
「え?なに、レイにもそういう相手いるのか?教えろって!お前、浮いた話全然ないし俺心配してたんだぜ」
爛々とした瞳で乗り出すシンの顔を片手で押し返すと、レイは冷やかに返す。
「シンに心配されることはない。今はお前の話だ」
「……俺は、わかっちゃいるけど、突き放すとかそういうんじゃなくて、なんか方法ないのかなって」
「真摯に言葉で言ったんだろ?」
彼がサラに何を言ったのかはわからないが、レイにはなんとなく想像がついた。真面目で優しい親友のことだ。大まか気遣いを含んだ曖
昧に近い言葉だったに違いない。
「だが、彼女は“私、諦めませんから!”といって去った」
「お前いたのか?もしかして」
「そんなやりとり盗み聞きして何の得がある?俺は暇ではない。聞かずともわかる」
「……わかっちゃいないのは、俺だけってやつか」
大きな溜息をつくと、シンは不意に窓を見やって視線を外した。
「俺なんか好きになるなんて」
シンは聞こえるほどの小ささで僅かに笑って呟く。
「俺が誰かを好きになるとか、幸せにするとか……有り得ないと本当は思ってた」
誰かに与えられる好意を嬉しく思う自分、それが受けてはならない運命だと思うがんじがらめの自分。
「戦争が終わって二年間、俺はそれなりに前向きにやってきたつもりだった。でもいつも心のどっかで見ないようにしてる場所があって、
それに触れたら自分がどうなるかわからなくて、ひたすら“戦争が終わって、これからを幸せに生きてる自分”を演じてなきゃ頭おかしく
なりそうだったよ。そうでなきゃ、俺はいけなかった。生き残った者として。死んでいったみんなの、俺が奪った命たちの分まで、、そう
して精一杯生きなきゃ……俺にとって、生きることのほうがずっと戦いだった」
ゆっくりと語られるシンの心は何の建前もない、彼の本音だった。レイは黙って聞きながら、本当にシンは軍人に向いていないと、改め
て戦時中に思っていたことを感じる。
「そのことに気付いたのは世界が落ち着いた頃だったよ。地球連合が解体されてプラントの評議会も再編されて……目まぐるしく世界が変
革していく中、俺は自分に向き合わずにただ側にいてくれるルナマリアに甘えて、取り戻した忙しい日常の中で見ない振りばかりしていた」
変わりゆくのは世界。変われない己を情けなくも自覚し、見ない振りをする。レイにも覚えのあることだった。
「でも、ステラが帰ってきて俺は向き合わないわけにはいかなくなった」
「……ああ」
「失ったものも、自分で失くしたものも、奪ったものも壊したものも……何もかもに向き合って、それでも俺は生きたいって、言える自信
が正直なかったんだ。でも」
痛かった。心が。友の想いが。
きっと同じ傷と痛みを持つと知っている友の言葉だからこそ、痛かった。
「何もかも奪われて、神様なんていないって、力を手にしてそれに頼ったって全然埋まらなくて、戦っても戦っても何にも手に入らなくて
それなのに、ステラは帰ってきた。それがなんだか、俺でも生きていっていいんだって……そういわれてる気がして」
「シン」
「初めて、素直に泣けた」
言い終えて、シンはゆっくり微笑んだ。向けられた笑顔にレイは不覚にも声が詰まって、目頭が熱くなった。シンの心はいつも荒廃して
いて、本当の敵は心に巣食う孤独で、同室だったレイは何度もシンの苦しそうな嗚咽と寝言で呻く家族の名前を聞いた。知らずと無意識に
空に手を彷徨わせて、探すように腕を伸ばすシンの手を幾度も握ってやれたらとも思った。しかし、あの頃のレイにはそれができなかった。
今ならわかる。今なら、言える。
「大丈夫だ。みんないる。俺も。だから……もうどこにも行くなよ、シン・アスカ」
瞬くシンをレイは嬉しい思いで見つめた。こうして語り合えることこそ、人のいう幸せというものだと思えた。自分が何かの複製でも、
その出生の道程を知らずとも、この思いと時間だけは誰のものでもなく、己のものだ。
「どこにも、いった、ことなんか……ないって」
ゆっくりと歪んでくしゃくしゃになる友の顔を目を逸らさずに見つめる。声はやがて嗚咽に変わり、朱色の瞳からは大きな涙が止め処な
く流れ落ちたが、シンは気にすることなく泣きながら笑った。
レイもまた、自然と頬を伝った己の涙を拭いもせず、シンと一緒に笑った。
ようやく帰ってきたのだ。
否が応でも旅立たなくてはならなかった戦いの日々から、本当の自分の元へ。
たくさんの仲間と思いを得て、ひとりではなく、帰ってくることができたのだ。
悪いことをしたら、“ごめんなさい”
してはいけないことをしても、“ごめんなさい”
じゃあ、約束をなくしてしまった時は何て言えばいいの?
「ステラ」
ひとりステラは手紙を書こうとテーブルに向かっていた。そうっと背後から掛けられた優しい声に振り返ると、ラクスが笑顔で立っていた。
「ラクス、用事終わったの?」
「ええ。わたくし、これから少し所長とお話してきますわ。ここにイザークをおいて行きますから、遊んでもらうといいですわ」
「いざく、遊んでくれる、の」
ラクスの少し後ろに立っていたイザークは銀の髪を揺らして瞬いていた。
「おい、ぎ……いや、ラクス嬢。俺はだな」
「あらあら。嬉しいくせに」
「一応勤務中なのだがな」
ぶつぶつと文句を言いながらも口元が綻んでいるイザークにラクスは笑い声を漏らす。ステラは二人が来てくれたお陰で一人でいたこの部屋
が明るくなったのを感じ、嬉しくて目を伏せた。
大切な人が側にいるということは、何をしていなくともそれだけで満たされる。何気ない会話、何気ない表情、ひとつひとつの時間を消えな
いようにしまっておけたらどんなにいいだろう。ステラは最近そればかり考えていた。
眠っても、時が経っても、どんなことがあっても、こうした今の気持ちを忘れたくない。忘れてしまうことで、誰かを傷つけたり悲しませた
り、したくなかった。
「では、イザーク。頼みましたよ」
「ラクス!」
「はい、なんですか?ステラ」
思わず離れかけたラクスの腕をステラは勢いよく止めていた。しかし優しく振り返り問われて、黙ってしまう。
「なんでもな、い」
ゆっくりと気遣うような瞳に変わるラクスの顔を見て、慌ててステラは顔を振って笑顔を返した。
「よる、よるご飯はいっしょ、できる?」
「……ええ。今日は一緒にいますわ」
「ありがと、まってる。ラクス」
行って、と促すようにステラは頷いて見せ、ラクスの背を見送る。隣まで歩み寄ってきたイザークが、ステラの側にあった椅子に腰かけて
そっと窺う様に口を開いた。
「それ。シン・アスカにか?」
真っ白の紙には、まだ一文字も書かれてはいなかったがペンの背が何度も行き交った跡が薄っすらと夕日に照らされて浮かんでいた。
「う。でも……ステラ、字、へただから。でも、どうしても」
「なるほど。では、俺様が教えてやろう」
「いざくが?」
「なんだ、不服か?」
「ううん、うれしい」
顔中いっぱいの笑顔を浮かべると、ステラは手元にあった便箋をもう一枚ちぎって、ペンケースからペンを取り出しイザークの前に置いた。
「ふむ。ステラ、お前これではいかん」
「?」
イザークは置かれたペンのキャップを取ってじろじろと眺めると、蓋をしてペンケースに戻す。瞬いて首を傾げるステラを放って、ジャケッ
トの内ポケットから一本の万年筆を取り出した。
「手書きの手紙はこれで書くのが、一番だ」
得意げに口の端を持ち上げるイザークの手にあるものをしげしげとステラは見つめた。少しずんぐりと丸いフォルムのそれは、ステラが使お
うとしていたか細いペンとは大分違うもののようだった。第一、どこで書くのか検討もつかない。
「これが蓋だ」
きゅっと取って見せた万年筆の蓋に驚いてステラは声を上げた。
「そっそれ、本体じゃないの、ふた?へええ……」
渡されたそれはペン自体と全く同じ色と太さで、艶々したチョコレートのようだった。
「そのペンと構造は変わらんが、ペン先が違う。勿論、インクもな」
「ほんとだぁ……さきっぽ、へんなの」
ペン先を必死に見つめるあまり、ステラの視点は一点に集まる。
「変なのはステラの顔だな。目、寄っているぞ」
「ぁえ」
イザークに眉間を指で突付かれてステラはおでこに手をやると、イザークは手前にあった紙にそのペンを走らせた。
「……わあ。きれい」
すらすらと描かれてゆく綺麗な文字にステラは感嘆の声を上げた。イザークの書く字も、それを辿っていく藍色のインクも、まるで浮かびあ
がるようにそこに連ねられていく。
ステラは頬杖をついて、じっと眺めた。綺麗な字、綺麗な流れ。
そこになんて書いてあるかわからなかったが、それは絵本の絵が字になったような、そんな感動だった。
「ほら、書いてみろ」
「でも」
「……そうだな、何を伝えたいんだ?ステラはあのバカに」
問われてステラは俯く。伝えたいこと、それはたくさんあった。シンに伝えたいこと、シンと会えなくてつらいこと、シンと一緒にいられな
くなってから一人で考えたこと、何より会いたいということ。
けれどそれは手紙にする気はなかった。これまでだって何度でも手紙を出すことはできたがしなかったのだ。それはシンも同じ思いのようで
互いに文面でやりとりしたことは、この半年なかった。
些細なことかもしれないが、そこに頼ってしまいそうな自分がいて、縋りついて帰りたいと手紙になら言ってしまいそうな気がして。
シンに触れたい。
シンに会いたい。
ほんの少し硝子越しに会うくらいなら、いっそ会えないほうがましかもしれなかった。押し寄せる寂しさ、シンの側にいれないこと、埋めたく
て手を伸ばすのに、分厚い硝子はその温度さえ通さない。
「……いざく、いざくは誓いした?」
「誓い?」
「そう。だいすきなひとと」
問うとイザークは椅子に背を任せて深く息を吐き出し、数回瞬きを繰り返すとステラを見た。
「内緒の話だがな」
「うん」
「そうしたいと思ったこともある。だが、俺にはひとりを守ることよりも先にせねばならんことがあった。だから、まずはそっちの誓いを果た
してから……自分のこと、だな」
静かに述べてイザークは微かに笑った。それはどこか悲しそうでいて、寂しそうで、でも決意の漲るそんな微笑みだった。ステラは無性に胸
が苦しくて、息を止めてイザークを見返した。儚くて、愛しい人に似たその笑みから目が逸らせない。
イザークは不意に目を逸らすと、ステラの頭を乱暴に撫でて今度は声を上げて笑う。
「どうした?好きな奴にでも似てるか?」
「!」
真っ赤になって俯くステラの顎をイザークは捉えて、上げさせた。
「ステラ。お前はいい女だ。だから、そう悲しそうな顔ばかりするな」
「いざく……」
「そう何もかも共有するな。俺の背負うものは俺の荷物であって、それでいいんだぞ。お前にだってあるんだから」
低い声でゆっくり言うと、イザークはステラの顎から手をそっと包む様に頬へ移動させた。夕日に照らされた互いの顔が眩しいほどに臙脂
色をしていて、部屋中がまるで海に沈む夕日の中のようだった。
「シンのことだってそうだ。あいつの荷物はあいつが背負うべきもので、それを背負っていける強い男だろう。お前の好きな奴はな」
「……うん」
「まあ、俺は知らんがな。シン・アスカのことは」
いつもの面白がるような笑みを浮かべたイザークにステラは声を立てて笑った。
みんな、みんな何かを背負っている。その重さはそれぞれに違うけれど、ときたま下ろして休憩したり、その時偶然一緒に休んだ人と共有
し合ったり。そうしてまた、歩き出す。明日を目指して、歩き出す。
シンは今、なにしてるかな。
ねえ、シン。話したいことがたくさん、たくさんあるよ。
ステラはね、やっぱり……。
「いざく。手紙、やっぱりやめとく」
「いいのか?」
「うん、その代わり……探す。やっぱり探したい」
立ち上がってステラは頷いた。握りしめた拳はもう迷わないと決めた強さ。握りこんだ思いは遠くにいる大好きな人への思い。
「指輪か……仕方ないな」
目を伏せ、思案するように腕を組むとイザークは新しい便箋に短く何かを書いた。それを二つ折にして封筒に入れると、封をして立ち上が
る。
「暗くなる前に、探すぞ」
歩き出すイザークの背に、ステラは大きく頷く。
嬉しさと、言葉にならない気持ちが胸にいっぱいで声にならなかった。
「なんて、かいたの」
「企業秘密。これは送っておくぞ」
イザークの手の中でひらひらと揺れた封筒をステラは見上げて、やっぱりそれも夕焼け色に染まっているのに気付いて微笑んだ。
「ばっかじゃねえの……」
アウルは夕日が沈むまでの間、ステラがイザークと一生懸命に泉に潜って探す様子をじっと隠れて見つめていた。何度も何度も繰り返し
潜っては上がって、見つかるはずもない指輪を探している。
もう日は暮れ、ゆっくりと夜の帳が下りてきて辺りを包んでいた。
「ほんと……バカじゃねーの」
小さな手のひらを握り締め、びしょ濡れになって笑うステラを見据える。一緒にいるコーディネーターと楽しそうに馬鹿みたいに諦めず
探している姿に、どうしようもなく腹が立って仕方なかった。それでも、アウルにはあそこへ行く勇気がなかった。
目を逸らしてアウルは壁に背を預けた。背後から聞こえてくるステラの声が、記憶の片隅をノックするようで、さらに胸が痛かった。
(……あいつ、よく海で遊びたがったっけ……ばかみたいに)
薄っすらと蘇る記憶の残像は、鮮明ではなかったが目を凝らせば見える気がした。消された記憶も、探せばきっとまだどこかにある。そ
んな気がした。
「……は、おれが一番……バカだな」
声のしなくなった方を見やって、静まり返った誰もいない泉に呟くと、アウルはそっと立ち上がって歩き出す。
「こんなもの……」
握り締めた拳を思い切り振りかぶって、アウルはそのまま動かない。
泉は真っ黒で、もう近くのアウルさえ湖面に映さない。さわさわとそよぐ風に水色の髪は揺れたが、アウルはそのままでいた。じっと、
ただそのままで。
「なんだ…よ……っこんなの、こんなの……どうしておれは」
悔しさに口唇を噛み締めてアウルは俯いた。過ぎるのはどうしてかステラの顔で、ちらつくその顔に苛立ちは増した。へらへらと暢気に
生き延びやがって。人を殺すための兵器が人並みに生きていこうなんて馬鹿げている。しかも、滅ぼす為に造られた者がその対象と微笑ま
しく暮らし幸せだと言うなんて。
愛されたいのですね。
ダットのくれた腕の温かさに癒され、手に入れることが叶うかもしれないと知ったその言葉は頑ななアウルの心に届いた。けれど、それ
でも許せない気持ちと葛藤がいつまでも胸を占めた。
ステラを見ていると、それが増した。やっぱりそうなれるわけがないのだと、そう言ってやりたい気持ちが増した。蔑んで酷い言葉で現
実を突きつけて、諦めさせたかった。自分がそうであるように。言っても、言っても、聞かない自分を戒めるように。ダットの言葉に涙し
帰ることのできる場所を求めてしまう自分に突きつけるように。
「……おれたちは……すてぃんぐ……」
震える手を、アウルはゆっくりと開いた。
「おれたちは」
手のひらに乗る指輪は夜の闇の中でも、銀色に輝いて見えた。
「……なんのために生まれて……なんのために死んだんだ……?」
繋がる輪。終わることのない繰り返し。始まって、辿りつき、また始まる。この指輪はその象徴か。永遠にぐるぐる回って、モルモット
みたいに、同じところをずっと走って、やっと終わったかと思ったらまた走るのか。
「なあ、教えてよ」
静かに頬を伝った透明な雫は、ぽつんと手のひらの指輪の上に落ちる。
「かあさん」
何度も、何度も、大きな雫が指輪を濡らした。
偽ものの世界で、星の瞬きだけはどこにいても本物だ。その光が照らすそれは偽りを真実に変えてくれるだろうか。太陽も月も、空さえ
失くしても、今ここを照らす光だけは消えはしないだろうか。
そうであるのなら、星になったと教わった母さんは本物だってことだ。
母さんは偽ものではなくて、ぼくを愛してくれていたってことだ。
ステラの誓いが本物だというのなら、おれのこの思いも叶ったっていいってことだ。
「ラ、ララ……」
誰が歌った唄だろう。
知らない、でも知ってる。波の音と風の音に似た唄。
「は、はは、はははははは」
ここだよ。
ここにいる、おれはここだよ。
誰かにそう言いたいのに。誰にも言う人がいない。
「どうして戦争、終わっちゃったんだよ……」
ら、らら……ららら、
「あ……」
ららら、ら……
「うた……」
風に乗ってゆっくりゆっくりと漂う声。それは聞いたことのあるメロディ。
なにもかも忘れる少年達の、どうしてか忘れられない残像。
「ステラ、か」
震える呟きがかき消されるように木々のざわめきに紛れる。
「ないてるの?」
そっと泉の側にステラは立った。少し離れたその場所でアウルを見返している。
「ひとりでないちゃ、だめだよ」
「うるせえ!」
怒鳴って、突き飛ばした。振り払って近づけないように。
「おまえなんか!おまえなんか!!」
「アウル」
立ち上がって近づくステラを何度も突き飛ばした。何度も。
「アウル」
「おまえ、なんか……っ」
何度突き放しても立ち上がって腕を取ろうとするステラをアウルは思い切り蹴った。そして立てないように何度も蹴った。
「ア、うる」
「おまえなんかに、おまえなんかにわかるもんか!おまえなんかに……」
「ごめ、ね。ひとりにして、あう、る」
「だまれ!だまれえっ」
蹴りつけた足に縋りつかれ、アウルは後退した。それでも手を伸ばしてくるステラを思い切り振り払って、握っていた指輪を投げつけた。
「返してやるよ!そんなの!!拾えよ、誓いなんだろ。おまえのいきてるあかしなんだろ」
「……」
ステラはぼろぼろになったまま、よろよろと草の上に落ちた指輪を拾おうと手を伸ばした。
「…ぁう!」
「拾えよ……拾えってば」
届く前に踏みつけられた手を必死にステラは引き抜こうとしたがアウルは少年と思えぬ強さで踏みつけた足を動かさない。ぎしぎし言う
ほど踏みつけて、笑った。
大声で笑いながら、止まらない涙を拭いもせずに。
「うぅ」
「大事なんだろ。拾えよ……おれを殺してでも拾えよ!!」
そうできるくせに。
兵器のくせに。
本当は忘れられっこない。幸せになれっこないのに!
「証明してみせろよっおれたちは化け物だってさあ!」
ぱんっ
「……!」
一瞬にして頬を過ぎた痛みにアウルは時が止まったのかと錯覚した。感覚が戻った時、頬を叩かれたのだと気付くまで数秒かかった。
「アウル、もう、いいの」
ステラはその場に立って、静かな瞳でそう言った。
「もう、いいの」
音もなく屈み、アウルの髪に触れるために腕を伸ばす。アウルは金縛りにあったように動けなかった。
「たたかったの。わたしたち。もう、おわったの。だから」
そっと抱きしめてきた腕は不器用で、痛いほどだった。
優しいなんてものじゃない。
でも、伝わる温もりは熱いほどで、痛みと同じだけ強い思いがそこにはあった。
「生きようね、わたしたち」
辛くても。
その意味を見いだせなくても。
それでも、今のわたしたちは「選ぶ」ことが叶うのだから。
あなたにも、わたしにも、誰とも変わらない同じ風と光が注ぐんだよ。
アウル。
シンとステラを長いこと会話させていないと胸が・・・ってなります。
がんばろう。