目が覚めると、何もなかったみたいに元通りでステラは少し悲しくなった。
 己の手のひらを見つめて、何度か瞬きする。蘇ってくるような、心を焦すあの衝動的な怒りにも嫉妬にも似た悲しみはもうない。なんだか、人一人分ステラ
の中から消え去ったような感覚がして、やっぱりステラは悲しかった。
「……ステラ、忘れないよ」
 そうだ。忘れない。
「消えたんじゃなくて、ひとつになったのではないのか?」
「いざく」
 病室の扉が音もなく開くと、柔らかい風と共に銀の髪を揺らしたイザークがそこに立っていた。
「驚いたか」
「う、だって……まだ、朝じゃない」
「ちょうど日の出前だな。夏の終わり際の夜明けはいいものだ、ステラと見たくてな」
 微かにステラに向けられたイザークの微笑みは滲むような優しさが感じられて、ステラは安堵する。一人でいるとつい下降しがちな思考を浮上させるには
誰かと話すことが一番だ。
 決まってこの朝方、目が冴えるステラにとって、イザークの訪問は有難く素敵なものだった。
「もう、9月だぞ。地上は」
「……シン。ひとつおとなになった。素敵なこと。ステラ、くがつ好き」
「お試しでオーブに戻っていたんだってな」
「ダットが、いいよって。もうすぐ、帰れるって」
 シンと二人で9月の頭にオーブへ帰省する許可が出て、たった二日間だったが戻ることが叶ったのだ。またひとつ大人になったシンは、ステラから見てと
ても眩しい存在になってゆく。誕生日のないステラは、いつまでも自分だけがそこに取り残されている気がしたが、みんなを祝う度に自分も歳を取るのだと
思えば楽しい数の方が多い。
 ステラには知りかねる色を湛えたシンの瞳は、真っ直ぐにオーブの海を捉えて離れなかった。
 思い出の中に還っている時のシンは悲しそうで、辛そうで、独りに打ち震えている。でも、そこに戻りたいという時、シンはきっと笑顔になる。戻りたい
とずっと思っているはずなのだ。あの頃に。失うその前に。
 だから、きっと笑顔になる。
 その悲しみを打ち消すくらいに。
 それなのに、シンは一度だって言ったことがない。言わない。
「オーブに施設が完成したのだそうだな。もう見たか?」
 シーツを睨むように見たまま動かないステラに、イザークはやれやれと髪を混ぜて、ステラのベッドに腰掛けた。
「ステラ?考えごとか」
 弾かれたように顔を上げてステラはイザークを見た。
「ごめんなさい……、いざく。ステラ、聞いてなかった」
「この俺様といるのに上の空とは、ステラは度胸があるな」
「いざく」
 笑ってステラの髪をもう一度くしゃくしゃに混ぜてくるイザークに、ステラは微笑んだ。
 優しくて、さりげなくステラの悩みを聞いてくれるイザーク。勝気なつり目が時にシンを思わせてステラは不思議な気持ちになることがある。つい甘えて
しまう自分を自覚しているだけに、ステラは俯いた。
「ステラ。日の出を見に行こう」
「え」
「決まりだ」
 そういうと、イザークはステラの掛け布団を引っぺがし、ひょいっとステラを抱き上げた。
「ぅあわ」
「お前、軽すぎるぞ。ここの食事は精進料理か?」
「お、お、おろして」
「嫌か?」
 驚いて慌てるステラにイザークは全く表情を変えずに言う。顔を振ってステラは抵抗する。
「だめ。シン、怒る」
「……ほう」
 しまった。
 イザークはどうしてかシンの名を出すとこの顔になるのだ。目が半分になって、頬が引き攣る。この顔。
「ならば、これで我慢だ」
 困ったステラの顔を見てか、潔くイザークは諦めたようだった。そして、次はそのまま背中に軽々と背負った。
「これなら文句あるまい」
「……あるける、ステラ」
「どうせ皆眠っている。あのクソ生意気は宿舎でぐっすりさ」
「でも」
「あいつがこっちに居ついて以来、まともにステラと過ごせないんだぞ。たまには俺様孝行をしろ」
「おれさまここ?」
 均等に訪れるイザークの背中からの振動がステラに心地よく響く。頼もしい背中はまた少しシンとは違うようで、なんだかやっぱり不思議な気持ちになっ
た。
 言っても聞かないのはわかっているので諦めて、ステラは負ぶわれたまま廊下を眺めた。
 まだ職員たちすら起きていない時間。深夜と変わらないほどの暗がりの中歩くのはなんだか悪いことをしているようだ。
「屋上が一番良く見える」
「あ。待って、いざく」
 階段を上がろうとしたイザークの肩をステラは叩いて止めると、肩越しにイザークを覗き込んで微笑んだ。
「あれ。もってこ」
 指をさしたのは自販機である。
「喉が渇いたのか?」
「いいの、いいの」
 急かす様にステラが揺すると、イザークは頷いて自販機の前まで行ってくれた。
「いざく、どれ?」
「俺は水でいい」
「わかた!コーラね!」
「俺の返事聞いてたか?むしろ、聞いたのは何故か気になる」
「ステラは、サイダー!」
「……そうか」
 勢いよくボタンを押したステラは嬉しくて笑った。がこん、がこんと二つ落ちてきた缶をイザークは取り上げるとそのままステラに手渡した。
「つめたい」
「落とすなよ」
「ね、あるくよ。ここ、十階建てだよ」
「問題ない」
「十階も、のぼるんだよ」
「承知している」
「疲れちゃうよ」
 階段を上りながらずっとこの調子でステラは聞いた。なにせ、エレベーターは職員とでないと動かないのだ。
「……仕方ない。俺の本気を見せてやろう」
「?」
 そう言ったイザークは抱える腕に力を込めて、いきなり階段を二段飛ばしで駆け上がり始めた。
「ひえあああ」
「俺は駿足だーっ」
 ステラは背中に必死にしがみつきながら、その振動に四苦八苦した。
 イザークが屋上の扉を開けたときに背中にいれたのは、奇跡に近かった。

 ぜえ、ぜえ、ぜえ、、、

 互いに肩で息をしながら、数秒そのままで動けない。
 そして、同時に床に寝転がって笑い出した。
「ど、どうだっしゅ、駿足のイザークだったろ……」
「ふ、ふふ、う、いざく、コーラ、爆発するよ。あはは」
 ステラは転がって仰向けになりながら、両手に持ったコーラとサイダーを見やる。明らかに振りまくったそれらは、開けるととんでもないことになりそう
だった。
「日の出には間に合ったのか?」
 ついでのように思い出したイザークが身を起こして屋上の向こうを眺めた。
「おお。まさに良いタイミングだぞ。ステラ」
 言うが早いか、イザークはステラのだれだれの腕を取って引きずるように起こすと、二人で手摺のところまでいって地平から覗きだした太陽を見るめた。
 じりじりと顔を出し始めた太陽は真っ白で、何かが生まれてくるのと似ていた。
「はい。いざく」
 コーラを隣のイザークに差しだし、ステラは自分のサイダーを掲げてプルトップに指をかけた。
「これは勇気がいる」
 嫌な顔を浮かべるイザークに微笑んで、ステラは言う。
「夜が明ける、あたらしい日、みれるとき……必ず乾杯するの。シンと、きめてる」
 今日という日を、また迎えることができたことに感謝したいと、シンが言った。迎えたくてもそうすることが叶わなかった人たちの分まで、有難く受け取
り感謝しなくては、と。
 また、今日に出会えた奇跡に。
「カンパイ、いざく!!」
「ぅおわあっ」
 勢いよくプルトップを弾いたステラとイザークの手元で炭酸の弾ける音がする。
 二人は驚きと奇声を同時にぶちまけて、日の光に目をやった。
「ふ……は、は……ははははっ」
「へ、へへ、べた、べただね!」
「おかしいぞ、ステラ。甘い匂いが気持ち悪い」
「ううー、ほとんど入ってない」
 可笑しそうに笑うイザークを見て、ステラは微笑んだ。気兼ねなく、こうし豪快に笑うイザークが好きだ。ステラにはよくわからないが、イザークは偉い
人で、そういう仕事をしているから一緒にいる大人たちは強そうで、気難しそうなのだ。そして、イザークもそのときはその人たちと同じように怖い顔をし
ている。
 こんなふうには笑わないのだ。
「ね、イザーク。ひとは、わすれる生き物だから、おぼえていられない。でも、だからまいにち、カンパイできるね」
「・・・・・・ああ」
「わすれてもいい、だね」
「ステラ」
「ありがとう、いざく」
 忘れていいことだってある。
 それは等しくみんなに同じことなのだ。それはシンだって同じなのだ。
「ステラ、がんばる。シン、かなしくないよう、がんばる。かなしいこと、わすれない。でもわすれてもいい。人間忘れるいきものだから。いつかシン、あっ
ちにいるかぞくでなくて、ステラのほうにきてくれる」
「ステラはあの寝癖野郎が、未だ死んだ者への未練を断てないと思っているのか」
「ううん。ちょっと、ちがう」
 ステラは顔を振ってイザークを見返すと、昇り始めた明るい朝日に目を向けて続けた。
「わかる、の。ステラも、置いてかないで、そっちにいきたいってそう思ったから」
 霞む曖昧な世界。
 白と記憶だけの混在する世界。
 そこは何もかも忘れて楽になれる気がした。自分だけが取り残されてしまったような気になって、独りだと孤独だと泣けずに生きている者に世界は選択肢を
迫る。己の責任で選べ、と。
 死んだ後にどうなるかなんて知らない。死んだ後、また会えるかも知らない。それでも、ステラは自分の見たものを妄想だとも願望の魅せた幻想だとも思わ
なかった。すべてが本当なのだ。信じたものすべてが。
 だから、もうひとりのステラだっていなくなったんじゃない。忘れたんじゃない。ステラがそう思う限り、それでいい。
「もっと」
 ステラは腕を伸ばした。
「もっと、もっと」
 両手いっぱい伸ばして、朝日に届くわけがないのにステラはそれでもやめなかった。柵から乗り出したステラをイザークは止めはしなかった。
「つよくなりたい」
 この腕に、ただひとつ守れるだけでいい。
「つよく」
 そうなれたら。
 きっと、悲しい想いはもうやってこない。失くすことはない。いつかこの身が形を成さなくなって、白いあの世界を訪れたとしても。

 空っぽの缶が足元に転がる音がした。
 拾うイザークの俯いた頬から落ちるものを、ステラは忘れない。

 忘れない。

 

 

 

 

 


 
「おい、邪魔だぞ。寝癖」
「・・・・・・お前、銀の悪魔と同類かよ」
「悪魔て。さすがヘタレは違うな、あんな奴が怖いのかよ」
 シンは半眼で目の前に立っている小さな少年を見返した。大人びた表情、もとい、明らかに人を見下した表情でこちらを見て大袈裟に溜息をついて
みせるのを見てシンは口唇を噛んだ。
「別に、邪魔じゃないだろ!さっさと行けよ」
 非常階段の入り口で座り込んでいたシンはドアの向こうの屋上にいるステラとイザークの会話に、動けずにここにいた。情けなくも不意味零れた涙
に駆け上がってきた色々な気持ちに整理がつかなかったのだ。
 そこにこの小さい悪魔が。
「お前も悪魔族だ、チビ悪魔」
「オレよりでかいくせに、中身がガキより小さいもんな。あんた」
「何しに来たんだお前は」
 睨んでも怯みもしない少年に、シンは短く嘆息して壁にもたれた。ひんやりした壁がシンの背を呑み込むような気がしたが、今は子憎たらしい少年
お陰で感傷的にはなれない。
「わっかんないなあ」
「・・・・・・今度はなんだよ」
「ステラがシン、シンってうっさいから、どんな奴かとずっと思ってたけど。ただのヘタレじゃん?」
 本人に向かって同意を求めることか。それは。
「ステラは、アウルアウルとも言うけど?」
「・・・・・・」
 なんだよ。その反応は。
「おい、チビ?」
「チビじゃない」
 ぎっと睨み返すアウルはムキになっているように見える。シンは急に目を合わせなくなった少年を覗き込みつつ、いじってみた。
「お前こそ、ステラを馬鹿にするわりにちょっかい出してないか?あれか?好きな子にちょっかい出すあれか?」
 言い返してくると思っていたシンはやっぱり様子のおかしいアウルを見て、首を傾げた。
「聞いてんの?」
「・・・・・・っさい」
「なんだよ、図星だった?でも、ステラは俺のもんだからな。もう入る隙間はありませーん」
「・・・・・・っていって・・・・・・」
 反撃せず大人しいのをいいことにシンはアウルの様子を気にせずに調子に乗って続けた。
「連合のときもお前、ステラのこと好きだったんじゃないの?ってことはずっと片思い?切ないなー」
「っるさいって言ってんだろ!!お前なんか、お前なんかなあっ」
「って!」
 怒りに任せて胸倉を掴んできたアウルの両腕にシンは喉が絞まり、同時に壁に叩きつけられた。すぐさま手を掴み返してシンはアウルを睨みつけて、
固まった。反撃しようとした腕を知らずとゆるゆる落としていた。
「ま・・・・・・えなんか・・・・・・、くそぅ・・・・・・クソッ!!」
 震える拳のままアウルはシンの胸倉を離して、握った拳を壁に叩き付けた。コンクリートの鈍い音が幾度とする。
 シンは真横で殴り続けられる壁を見やって、間近で歪むアウルの顔を見つめ返した。本当はきっとシンを殴りたいのだろうに、それすらできないで
少年は歯を食い縛っていた。悔しさと悲壮、同居したその表情はシンも見に覚えのあるものだ。
「・・・・・・悪かったよ」
「なんだよっ、コーディネーター様ってか?っんだよ!!それ!オレたちはなあ、オレたちは、明日なんかなかった!片思いなんかしたって、24時
間限定さ!はっ、毎日一回一回、片思いしてたんなら、お前なんかよりオレのがステラを好きってことだよなっ」
「悪かったって・・・・・・殴れよ」
「殴るじゃ済まないから我慢してやってんだろーがっ」
 血の滲んだ拳が漸く、最後に今までで一番強く壁を叩いて止まる。鈍い骨のぶつかる音がして、ずるずると膝をついたアウルは声もなく嗚咽を殺し
ていた。小さな頼りない背中が揺れて、座り込んでいたシンの膝の間で蹲るようになる。
 震えると同時に、綺麗な水の色をした髪がさらさらと零れた。
「ステラ、海好きだもんな。お前のこと、大好きなのわかるよ」
 シンは思ったことをそのまま口にした。空というよりも海の色が似合うその髪は、ステラのお気に入りとすぐにわかる。
「お前は・・・・・・オレのほしいもの、みんな持っていきやがる・・・・・・どうしてだよ、どうしてオレには何も戻らないんだよ・・・・・・っ」
 彷徨った腕がシンのシャツを掴んだ。押し付けられた小さな頭をシンはいつかの自分を見ているようで苦い気持ちになる。選んで修羅の道を行った
シンと、選べず気がつけば戦禍の中だった彼らとは、背中合わせの立場な気がした。だから、決して背を撫でたりしない。
 何もせず、そのままでいた。
「何も手に入らないなら、何度だってある出撃の中で一番なってやりたかった・・・・・・あんなところでお前にやられるなんて予定外もいいとこだ」
「・・・・・・お前のって、あの水色のガンダムだよな。セカンドシリーズの」
 アビスは手強い相手だった。カオスもガイアも、コーディネーターの為に作られた機体を操る彼らはそのMSの性能をあくなく引き出していた。そ
れは戦ったシンや仲間がよく知っている。
 戦場での戦果は敵も味方も平等に、喜びも哀しみも訪れる。
 お前が殺したのだと責められても、いつからか平気なフリができるようになってしまった自分をシンは自覚していた。けれど、これは予想外にきつ
い言葉だった。アウルだってわかっているはずだ。シンが死んでも、おかしくない勝敗だった。けれど。
「オレのが強かったさ・・・・・・ただ」
 ぐいっとシンの胸に拳を当ててアウルは呻くように言う。
「お前のが生きたかったってことさ」
「今、力が欲しいって思うのか」
「・・・・・・世界を変える力か?は、そんなもんねーよ。この世に」
「お前は俺よりずっと賢いな」
 シンは苦笑して頭を壁にぶつけた。
 全てを憎み、一番恨み憎んだのは己の無力さだった。力のある者とない者の隔てある世界で、シンは何も出来ず一緒に逝くことすら叶わなかった。
生きてまだお前にはすることがあるのだと。だから生き残ったのだと。ある人に言われた。
 非力にも家族を救えなかったお前は生きてその戦争を終わらせて見せろと、力を手に入れてそれを成せと。あの日のシンはそう思った。
 向けてもらえた優しさや、苦渋の想いを知ることなくプラントへ渡ったのだ。
「あの時の軍人さん、どうしてんのかなあ」
 オーブも結局は戦に参加し、有していたMSでミネルバとだって戦った。あの軍人もきっと戦火にいたはずだ。もういないのかもしれない。
「・・・・・・皆、死んだ。それでいい」
 アウルの吐き出した小さな声に、シンは目を細めた。聞こえなかったことにして、アウルの髪をぐしゃぐしゃと混ぜる。
「っにすんだ!!」
「ほら、泣くなって」
「泣いてねえ!」
「目が腫れてますけど」
「お前なんかお前なんか、お馬鹿ステラとお似合いだよ!バーカ!!」
 立ち上がってもシンの真上ほどしかないアウルは、凄い剣幕でシンを睨みつけたが、シンには堪えない。
「・・・・・・覚えてろよ!!」
 その捨て台詞、初めて聞いたかもしれない。シンはそう思って、階段を駆け下りていった少年の背に幼い自分を重ねて目を伏せた。
「そっかー・・・・・・ステラのこと、好きだったんだな」
 嬉しそうにアウルの話したステラを思い出す。ステラという女の子は、好きという感情に種別がないようだからきっと“乱暴だけど最終的に優しい
アウル”が大好きだったに違いない。
 その懐きようがアウルにとって苦痛だったろうことも想像が出来る。
「俺の知らないステラ、か」
 なんだか、元彼の話でも聞いたような気分になってシンは顔を振った。
 気にしたって仕方ない。それにシンにだって、彼らの知らないステラとの思い出も出会いもあるのだ。
 イザークがこちらに気付いていないとは思えなかったが、知らないふりをしてくれるようだったのでシンは重い腰をあげて階段を下りることにした。


 

 


遅くなりました、、、

そして。次回は今度こそ地上デス!笑

inserted by FC2 system