ぶつからなくては変わらないことだってある。
皿から出た水は戻らないだったかな。
フクスイボンニカエラズ、だよ。それだよ。
とにかく、私は退く気はない。退くことができるとしたら、それはこの胸のもやもやが消えた時だ。そうして今まで諦めたことなんてない。
だから。
「・・・・・・ステラ、ねえ」
サラはザフト本部の出張所にある資料室で、分厚いプロファイルを引っ張り出して眺めていた。シンの一緒に住んでいる女性については、データ
ベースに一切情報はなく、紙面の、しかも不処理書類の中にしか残っていなかったのだ。
アカデミーの間、少し付き合ったことのある同級生に頼んで、ここに入れてもらったサラは出来るだけ早く情報収集して立ち去らねばならない。
「元地球連合軍所属、2ndシリーズ強奪事件に関与、その後ガイアガンダムのパイロットとして従事、出身はロドニアのラボ・・・・・・」
経歴を見る限り、何故今シンと暮らし、あの大戦を生き抜いた英雄たちと仲良くしているのか、理解が出来ないほどのものだった。このミネルバ
にも拘束した履歴がある。脱走となっているが、その裏になにかあるように思えて仕方ない。
「きっとアスカ先輩は一緒にいなきゃならない理由があるんだ」
戦時中というシュチュエーション。
敵同士という立場。
二人に逆境がそうさせたのだ。
「・・・・・・頑張れ、わたし」
サラは資料を閉じて深く息を吐き出すと、時計を見て立ち上がった。
港に艦が着く時間だ。
ステラ。
どこに行くんだよ、ステラ。
ねえ、
待って。待ってよ。
手は空を切って、シンは遠のくステラに届かない。
足はどうしてか鉛みたいに重く、雪の中を進んでいるようで一向に追いつけない。焦れば焦るほど、ステラの背は遠のく。
「・・・・・・テラ、まって、ステ・・・・・・!」
「寝ぼけてんな!俺はステラじゃねえーよっ」
ばこっと思い切り額を叩かれて、シンは漸く重力から開放されたように身を起こした。
「あれ」
「あれ、じゃねえよ。この寝癖ッ」
アウルが噛み付きそうな勢いで言うのをシンは目の前で見ながら、少しぼんやりする視界を手の甲で擦る。
確か先ほどまでステラと喋りながら宙を見ていたはずが、いつの間に居眠りしてしまったのだろう。しかもあんな夢を見るなんて。一緒
に居れないならともかく、今は目の前にいるというのに。
「・・・・・・ステラは!?」
目の前のもぬけの殻の座席にシンは立ち上がって驚いた。隣のアウルは見下した半眼で見返すと、鼻を鳴らして言う。
「とっくに降りたぜ。さっき」
指された機内の出入り口を見ると、すでに昇降階段がドッキングされていて、横にある窓にはオーブの景色が映っていた。
「夢にまでアイツのこと見るって、あんた病気じゃないの?」
心底呆れたような口調のアウルを無視してシンは荷物を取って駆け出した。なんてことだ、どうして起こしてくれなかったんだ。焦りは
背を押すようにシンを急がせた。
きっと皆がステラを出迎えに来ているはずなのだ。今日ばかりはシンだって、ステラと二人きりになって落ち着くまでは皆に隣は譲ろう
と思っている。だが、付き添って出て行かなかったらどんなことを言われ、どんな仕打ちを受けるか想像するだけで恐ろしかった。
「ステ」
シンは出口を勢い良く出て、階段を駆け降りてすぐにブレーキをかけた。降りたその場でステラが立ち止まっていたのだ。
その立ち尽くすような背中にシンは首を傾げて、ステラの肩に手を置こうとした。
「どうしたの」
触れる前に殺気めいたようなものを感じ、シンは周囲に目を向けた。
「・・・・・・あの・・・・・・一体、なにが?」
囲むように立って動けずにこちらを見ているのはカガリとアスランだ。そこ横にラクスとキラの姿もある。相変わらず、微動だにしない
ステラの背をシンは振り返って、言葉を失った。
ステラの背の先、その先には見知った顔がそこにいて微笑んでいたのだ。
「おかえりなさい、アスカ先輩」
にっこり笑ってサラはそう言うと、整ったその顔をシンに向け、ステラの脇を通り過ぎて駆け寄ってきた。
「サ、サラ。どうしてここに」
「あれ?なんだかまだ体調不良ですか?顔色悪いですよ」
サラの言葉に目の端に映ったステラの肩が大きく揺れるのをシンは見取ることができない。
「あのな、お前」
「今日たまたま有休だったんですよ。だからお出迎えに。彼女さんも見てみたかったので」
「だから、どうしてお前」
シンは思わず大きな声で返しそうになって顔を振ると、サラにだけ聞こえる声で言い返した。
「俺、お前にちゃんと断っただろ?ステラに何も話してないんだ。いきなりこんなふうに」
「困りますか?別にいいじゃないですか。やましいことなんてないんだし。私達」
「だから」
周囲を気にしない音量で話すサラに今度こそシンは怒鳴りそうになって気付く。
「・・・・・・あ、っと」
周りを置いたまま、二人だけで喋ってしまっていたこの空気は物凄く冷やかなものだった。そして、ステラは未だ振り返りもせず向こう
を向いたままだ。
シンは気が動転して自分が何をどうすればいいのか、この静寂均衡の中で検討もつかず口ごもった。
「シン」
肩を震わせてシンは顔を上げた。背を向けたままのステラが平淡な声で口を開いた。
「ステラ、みんなと帰ってるから好きにしていいよ」
そんなすらすら喋るステラをシンは初めて見た気がした。それくらい、声は冷たく無色だった。
「いこ。カガリ」
振り返ることなく歩き出したステラはこの状況を見守っていたカガリ達の待つほうへ行ってしまう。シンはその遠のく背を呆然とただ
見つめてい立ち尽くしていた。
気の毒そうな顔をしたのはラクスだけで、あとはシンなど気にも留めず背を向けて行ってしまう。
それでもシンはただ去りゆく愛しい人の背をそのまま見つめていた。
「・・・・・・行っちゃいましたね」
サラが隣で気遣う雰囲気で呟いたようだったが、シンの耳には届かなかった。
「でも・・・・・・ちょっと、ひどい、ですね。置いていくなんて」
置いていく?
その言葉だけがシンに届く。
「・・・・・・っん・・・・・・だ」
「アスカ先輩?大丈夫ですか?」
「なんだよ・・・・・・なんだよ!お前は、何しに来たんだよ!ステラに何したんだよっステラがあんな」
勢いに任せてシンは怒鳴っていた。自分でも驚くほど頭に血が昇って一気に叫んでいた。途中、サラの息を呑んで驚き固まった顔を見な
かったらそのまま胸倉でも掴んでいそうだった。
「あ・・・・・・、ごっ・・・・・・ごめん」
驚いたサラの顔は次いで涙目になって、苦しそうに歪んだ。その場を駆け出して去ろうとするサラの手をシンは反射的に掴んでいた。
「悪かったって!!」
「は、離してください。私が悪いんで」
「今のは俺が悪かった、本当に。だから、そんなふうに逃げるなよ」
シンは胸が痛かった。うまく息が出来なかった。どうしてこんなことになってしまったのか、まだ寝ぼけて夢を見ているのか、ステラが
行ってしまったのか、何も把握できなかった。
わかるのは、ここでサラにまで気まずいまま去られてしまっては収拾がつかなくなるのではないかということだけ。
掴んで止めることができたのが、ステラの腕でないことにシンは唇を噛んだ。この状況でも、ステラにもサラにも最低な態度を取ってい
ることを自覚してシンは沈んだ。
「とりあえずさ・・・・・・、行こう。俺、帰れないしさ」
苦しい思いを押し込めてシンは無理やり苦笑した。困惑したままのサラの背をぽんと押して、シンは歩き出す。
どうして、隣にステラがいないまま、このオーブを久しぶりに歩いているのか。
どうして、こんな辛い気持ちなのか。
どうして、こうなったのか。
心待ちにしていた地上への帰宅を、こんなふうに迎えるとはシンは思ってもおらず、鉛みたいに重い足を現実で実感した。
終始、窓から眺めていたアウルは、がっくり下がった肩のまま去っていくシンの背を見やって、自分の荷物を持って立ち上がった。
「・・・・・・なんか、大変だな。アイツも」
シンには常に毒を吐きたいアウルだが、恋愛がどうとかそういうのを置いておいて考えても先ほどの状況は悲惨だった。本人には決して
言ってやることはないが、同情の域だった。
そもそも、あのシン・アスカという男の周りにはなんだかんだで女が多い。アウルは元来、女性というものが得体が知れないので無関
係でありたい為、あのシンの環境は気の毒に思えた。
「ボケステラのことは大体わかるけど」
言ってみて、アウルは短く息を吐いた。
「そうでもないか」
シンに背を向けたまま行ってしまったステラ。
あんなステラをアウルですら、知らなかった。時は変化しながら進んでいる。自分が例え、一人格の引継ぎで続きを生きているのでも、
それは同じだった。アウルの知っている少女は、もう得たいの知れない女性へと変わっているのだ。
「早く降りてらっしゃい」
昇降階段をのろのろと出てきたアウルに、下から明るく声を掛けてくる女性の姿を目に留めて瞬いた。すらりとしたその女は、端正な
顔立ちの親しみが滲んだ美人だった。
「アウル・ニーダ君でしょう?」
「・・・・・・あんたは?」
相手から殺気も何も感じないが、つい情景反射でアウルはぎっと睨んでその女性に言い返した。
「私はマリュー・ラミアス。キミの身元引き受け人よ」
「ミモトヒキウケニン?」
言葉の意味は分かったが、何故そんなものが用意されているのか理解できずアウルはしかめっ面でマリューと名乗った女にぶっきらぼう
に返した。
「そんなの頼んでない。俺は施設にいく」
言って、アウルは階段を降りきり、マリューを無視して通り過ぎようとした。しかしすかさず腕を取られて、アウルは振り返らざる得ない。
「まだ施設には体制が整ってないの。人員配置も埋まってないし。だからうちに来ることになっているわけ」
「・・・・・・じゃあ、ホテルでいい」
「あら、生意気ね。そんな予算、キミにありません。ほら、行くわよ」
「おっおい!引っ張るなっ」
「うちの旦那が貴方を迎えられるってやたら張り切ってて大変なの。連れて帰らなかったら私が迷惑するのよ」
ウィンクしながら言われてもアウルにはさっぱりわけが分からない。それにしてもこの女、凄い力だ。アウルは訓練を受けた自分が一般
の女如きに抵抗できないのかとかなり焦りながら、じたばたした。
「威勢がいいわね!気に入ったわ」
「ちょ!あんたっマジでキレるぞ!離せっ」
「車で来てるの。うちちょっと遠いから」
「話を聞け!ダットのおっさんに連絡しろ!!」
「あら、もう恋しいの?可愛いところあるじゃない」
「あんなおっさんが恋しいわけないだろーが!!クレームだっクレームっ」
ギャアギャアと叫ぶアウルを物ともせず、マリューはにこにこ笑ったままずるずると腕を引いて真っ赤なスポーツカーのところまであっ
という間にアウルを連れて行った。
目のちかちかする車にアウルは思い切り辟易して見せた。
「シュミの悪い車だなあ、ったく。って、のらねえってば!」
「キミが来てくれたことだし、ワゴンでも買おっかな?」
「話聞いちゃいねえ」
アウルはぐったりしながら、笑顔の絶えないマリューを睨み返して思い切り溜息をついた。抵抗するにも長旅でお腹が空いているし疲れ
てもいた。次第にどうにでもなれと思ってきていた。
「帰ったらご馳走よ〜、ムウがやたら山盛りに作ってるから」
「誰だよ、その変な名前」
「あはは!そうね、そうかもねえ」
「・・・・・・馬鹿にしてんの?オレ、見た目と同じガキじゃないよ?」
口の端を上げて嫌味に笑って見せてもマリューは表情ひとつ変えずに頷いた。
「そうは言っても、十七八の子供じゃない。同じよ、同じ」
「あのなあっ」
「同じでしょう。子供の姿で中身は例え成人していようが、キミは何一つまだしてないんだから」
澄んだ瞳がアウルを真っ直ぐに見つめてくるのを、アウルは居心地が悪くて目を逸らす。何もかも見透かすようなマリューの声が胸に響
くようで顔を何度も振った。
「私たちも同じだけ、受けて立つわ。だから、キミも立ち向かって。それができるのよ、今のキミには」
「・・・・・・わっけわかんねー」
「私達にはね、子供ができないの。だから、キミを養子にしたいと思ってる」
言葉の意味は分かったが、何をどう反応し、こういうとき自分がどんな顔をすればいいのかわからなかった。アウルはただ生まれた不快
に似た気持ちに、目の前に映りこんだマリューを憎むように睨んだ。
「世界はキミが思って描いているだけのものじゃない。空に天井はないのよ、どこへでも行ける。キミから誰も何も奪えない。奪わせない」
憐れみではない色がマリューの瞳に滲むのをアウルは感じるが、まだ憐れみのほうがましだった。理解できないその色は、本当は不快で
はない気持ちを、苦い色へと変えてしまう。
この先、とか。
未来、とか。
明日、とか。
大嫌いな言葉。
「そうね。キミが抱く思いは確かだと思う。この思いは今はまだ私達のエゴよ。けれど」
笑うな。
そんなふうに、オレをみるな。
「キミのお母さんになりたい」
「お・・・・・・かぁ・・・・・・さん?」
なんだ。
なんだ。
なんだその言葉は。
「あ・あああ・あ・・・・・・っ・・・・・・」
震える体。
奥底から締め出されるみたいな痛み。
「母さん、おかあさん、お母さんおかあさん」
両手でこめかみを抑えてアウルは連呼し続けた。知らない感情、知らない恐怖、知らない喪失感が駆け巡り制御できない。寒くて凍えそ
うに冷たくて。こんなとき、いつも背を摩ってくれたのは。
マリューの温かく柔らかい手のひらが、アウルの背を何度も行ったり来たりして励ますように動いた。
「・・・・・・っ」
知っているその優しさに泣きたくて苦しい。
その手をアウルは知っていた。
何もかも忘れてしまう自分が、覚えていたことがあった。本当はステラが羨ましかった。記憶なんてほしいわけじゃなかった。それでも
かつての自分を知りどう過ごしたのかを感じることのできるステラが羨ましかった。
こうして、背をいつも撫でてくれた親友は今はもう居ない。
「どこ・・・・・・どこにいんだよ・・・・・・なあ、スティング・・・・・・」
消え入りそうなその声は誰にも届かない。
届けたい人にはもう、届かない。
「どうしてオレだけ」
暗闇が目の前に襲ってくるのを、アウルは見た。
「なあ、ステラ。良かったのか、あんなふうにシンを置いてきて」
カガリは黙ったまま、じっと前を見据えて動かないステラに漸くそっと声を掛けた。どうすればいいのか惑い眉を下げていたアスランを
横目で見て、カガリはステラの返事を待つ。
せっかく帰ってきたステラハウスを前に立ち尽くすその姿は、ラクスでさえ容易に声を掛けられなかったのだ。
「・・・・・・ガリ、・・・・・・にしてほしい」
「え?」
「ひとり、してほしい」
表情は何一つ微動だにしないのに、ステラの声は震えていた。なんとか搾り出された様子の声は苦しさと恋しさに満ちていて、その場に
いた全員が言葉を失った。
「わかった。ステラ、僕らは帰る。でも、いつだって呼んでいいんだよ。わかってるね?」
キラは何か言いかけたラクスより先にそう言って、ステラの肩をそっと掴んで寄せた。
「キラ、ごめんね」
「いいんだ。みんな、わかってる。けど」
一旦、言葉を切ってキラは心配そうに見守っているラクスを振り返って微笑んだ。
「僕らはみんなステラを愛してる。だから、本当は一人にしたくない」
「・・・・・・う」
「それがわかってくれてるなら、いいんだ」
そういってキラはステラから離れると、ラクスの手を引いて歩き出す。その様子を見てカガリも意を決したように息を吐いて、ステラに
駆け寄った。
「ステラ、いつでも電話しろよ」
「カガリ」
「ほんとは一人になんかしたくないんだぞ」
「ごめんね」
微かに微笑んだステラをカガリは思い切り抱き締めると、名残惜しそうに離してアスランの隣に戻った。この場を一番離れたくないだろ
うアスランは、未だ言葉をしまったままでステラを見つめていた。
「アスラン、あとで電話するね」
ゆっくりとそう言ったステラにアスランは苦しそうに眉を寄せると、顔を振って無理やり微笑み頷いた。
「わかった。絶対だぞ」
「うん」
何度も何度もこちらを振り返りながら離れてゆくみんなの背を、ステラは見つめたまま息を止めていた。
空気が重い気がする。
宇宙と地上は同じようなのに。
この空も、
見える海も、
大好きなものはみんな同じに見えるのに。
「・・・・・・シン」
ステラは呟いて、俯くと振り返って家のドアを開けた。半年振りの我が家だ。いつもここでシンの帰りを待っていた。何一つ、変わらな
い。このドアを開けてシンが出かけていくのを、今も瞼に浮かべることが出来る。その時の寂しさまで、鮮明に。
シンはちゃんとひとりで掃除も洗濯も、料理もしていたのかな。
シンはこの家で、ひとりでどうしていたのかな。
ステラのいないこの場所は、どこか違っていたのかな。
「・・・・・っ」
後ろ手でドアを閉めて玄関を上がろうとして、ステラは息を呑んだ。
気付いて、一気に駆け上がる感情に鼻がつんと痛くなった。溢れかえりそうになる涙腺をステラは放置して、無意識にのろのろと足をリ
ビングへ向けていた。
「・・・・・・う、う・・・・・・みんな」
お菓子の焼ける匂い。
手作りのテーブルいっぱいの料理。
小さなパンジーのプランター。
「ごめんね、ごめんね、ほんとに・・・・・・ごめんなさい」
大粒の涙がぼろぼろと床に落ちてステラの足元を濡らした。それでもステラは気にせず大きな口を開けて、わんわん声を上げて泣いた。
こんなたくさんの料理、ひとりじゃ食べられない。
こんなたくさんのクッキー、ひとりじゃあ美味しくない。
こんなたくさんの“おかえり”ひとりじゃ受け止めれない。
「シ、ン・・・・・・シン・・・・・・シンの、あ、あ、あんぽんたん・・・・・・」
ステラは頭の中で精一杯の悪口を引っ張り出してシンに向かって投げつけた。
本当なら、今頃、ここでこの幸せを皆でわいわいしながら味わっていたはずなのに。ステラの隣にはシンがいて、シンの周りには皆がい
て。笑って、喋って、疲れて少し眠ったら、いつの間にかシンと二人きりで。
きっと、そうしたら、漸くここに帰ってきたんだって思えて。
ようやく、安心してシンの腕の中で、前のように眠ることができるんだって。
「思って、た、のに」
ステラは息がしにくくて何度も鼻を啜りながら、必死に涙を拭った。胸がむずむずする。気持ち悪い。
「へんだよ、ステラ、シン」
無性に腹が立っていた。意味がわからないくらい、シンに腹が立っていた。
追いかけてこなかったシンにも、知らない女の子と仲良くしていたシンにも、ステラの知らない自分を女の子には見せてたシンにも。
「しらない・・・・・・こんなの、しらない・・・・・・だれかおしえて」
好きなのに。
側にいれたらそれでよかったのに。
「しらない」
嫌だった。
ステラの知らないところで、シンと見つめ合っている子がいるなんて嫌だった。
ステラが隣にいれない時に、ステラの知らないシンを知っているあの子が嫌だった。
アスカ先輩、体調よくなられましたか?
知らない。
ずっと、一人の間こっちで倒れたり貧血だったりしてたから。ここ一ヶ月はそちらで大丈夫でしたか?
そんなの知らない。
彼女さんの側にいたんだから、体調不良なんか吹っ飛びましたよね。
知らないのに。
あれ?まだ体調不良ですか。顔色悪いですよ。
「知らない・・・・・・しらないよシン」
からからの声を絞り出して、ステラは涙で滲む視界を映した。苦しくて、それなのに本来あったであろう楽しい時間を蜃気楼のように
投影する視界に目を細める。
ゆっくりとテーブルについて、ステラは皿に山盛りになったクッキーをひとつ手に取った。
「へんなかたち」
くすっと笑ったつもりだったが涙で濡れた頬がうまく動かなかった。それでもステラは手に取った山の形のふとっちょなクッキーを愛
しそうに眺めると、口に運んだ。
「あ・・・・・・」
齧ったその先に何か紙のようなものを感じて、ステラはそっと口からそれを引っ張り出した。
「・・・・・・?」
そこにはカガリの綺麗な字が並んでいた。
“ステラ。君はいつの日か、素敵な女性となって私達の元を離れてしまうだろう。それでもステラ、君はいつまでも、私達と家族でいるでしょう”
「カガリ、」
その小さな紙片を抱き締めるようにしてステラはテーブルに蹲る。込み上げる嗚咽を堪えたって、いくらでも胸を涙が襲う。
苦しい。この想いはなんだろう。
ただ唯一ステラにわかるのは、差し伸べてもらえる手にいくら縋りついたって、この今の気持ちに終わりがないことだった。
ステラ。
私はどうしたいの。
どうしたかったの。
遠く離れた宇宙と地上。
そこにいたときより、ずっと近くにいるのに、それよりも遠く感じる愛しい人に、ステラは何度も心で呼びかけた。
シンは己の情けなさを思い知ることには随分と慣れたものだと、虚しい自負がある。だが、今はどうにも分かったところで解決策もなく
虚しいだけで、この状況にうな垂れるしかない。
目の端で揺れる点滴の透明な液体に、何度目かわからない溜息を吐いた。
「・・・・・・よくこんな身体でプラントにいましたね」
ベッドの横で座ってこちらを見ているサラは呆れた顔を隠さずに、シンに言う。
「向こうではなんともなかったんだよ」
「へえ。先生は蓄積した過労だろうって言ってましたけど?」
シンはサラの言いように言い返せず、目を逸らした。実のところ、研究所にいた一ヶ月の間、眠りも浅く、食事もあまり取れなかったの
である。それだけステラの戦いは壮絶だった。覚悟をして行ったシンだが、それでもステラにはいえない己の痛みでないからこその苦しみ
があった。
ステラはそれを見せまいとシンを必死に遠ざけていたが、何度もシンはステラの頑張る姿を見ていた。
目を逸らさない。そう決めて行った。そして、自分のことと同じように知りたかった。ステラの痛みも、苦しみも。
「一ヶ月も有給だった人が、途端に病欠したら艦長カンカンですね」
苦笑して言うサラにシンも頷いて同意した。皆には迷惑をかけている。本来なら首になってもおかしくない申し出をタリアにしたのだ。
それを快く快諾してくれた上に、気を遣わせないようにかフェブラリウスで出来る仕事を振ってくれた。変に責任感の強いシンのことを
タリアは良く知っている。
この一ヶ月、ステラという女の子がいかに凄いかシンは思い知った。たくさんの痛みに耐え、それでもその後笑って普段と変わりなく
シンに笑うのだ。
笑いかけられると、なんだか自分は必要ないのではないかと思うこともあった。
そしてその度に、自分は何様だと落ち込むのである。何ができる?何をする?そんなことの為に行ったのではないはずだ。側にいたい。
ステラがいてほしいと言ってくれた。シンでなくては駄目なんだと。
それでも、やっぱり不安はついて回るもので結果的にこうして疲労していたのだろう。
「こういうのって、彼女さんは気付かないものなんですか?」
サラは少し控えめにそう言うと、窺うようにシンを見返した。
「私、すぐわかりましたけど」
サラの言いたいことは分かったが、シンは黙って聞き流した。シンも、ステラも、互いに思いやらなかったことなどない。だからシンに
もステラにも、お互いの弱みを見せないようにする癖があった。そのせいですれ違ったり、余計に心配をかけることもある。分かっている
が互いに治らない。
「・・・・・・サラ、お前ステラになに言った?」
シンはあまり感情を乗せずに低い声で言った。
「ステラ、あんなふうに言うこと滅多にない。っていうか、初めてみたよ」
「別に・・・・・・、アスカ先輩がこっちで一人のとき、倒れたりして大変でしたよって。ここ一ヶ月は労わってあげたんでしょうねーって少し
ばかり」
正直に言うサラにシンは再び苦笑して、身を起こして腕の点滴を引き抜いた。
「先輩!」
「行くよ。ステラ、一人にしたくないから」
「今頃、彼女さんは皆とわいわいやってます!先輩抜きで!!」
「・・・・・・多分、たくさんのご馳走の前で、一人で泣いてるよ。きっと。そういう子なんだ」
シャツのボタンを留めて、シンは立ち上がると耐えるように口唇を噛むサラに、微笑んで言った。
「その話が本当なら、ステラはやきもち焼いてくれたってことだよな?俺ら、超進歩じゃん」
心底嬉しそうに言うシンに、サラは呆れて瞬いた。
「結婚するんでしょ!?やきもちくらいで何笑ってるんです」
「はは。そっかな?ステラにとったら、俺とすることまだいろいろ無差別級だから」
「意味わかりません」
「だよな」
頭をがしがし掻いてシンは笑うと、サラの頬をぐいっと抓って離した。
「そんな顔してると、美人台無しだぞ」
「・・・・・・誰がさせてるんですか」
「うん」
シンは微かに惑って、サラの髪を撫でようとしてやめた。シンはサラを妹のように思うが、彼女はそうではないのだ。相手の好意に甘え
曖昧な距離でいようとするのは反則だと、脳裏でルナマリア先生が怒鳴り散らしてくれる。
「ステラと話してみるといいよ。きっと、俺がこんななの、良くわかると思う」
こんな、と自分を指差してシンはサラに手を振って病室を出た。
振り返ってはいけない。
人は、皆、誰かを選び、誰かと共に歩み、つしかまた同じように歩むことができるのだ。その時のために、今は背を向ける。
「ごめんな。サラ」
短く言った言葉は、どこへも届かずシンの胸に消えた。
もう22話だったのですね。
ああ、ああ、すいません。笑
アウルが成長することが親のように嬉しいです。書いていてあったかくなってしまう瞬間です。