彼女の言葉は、いつでも俺に響く。
 それは、きっと変わらない。

 出会ったあの時、俺はもう囚われてその残響から今も逃れることができないでいるのだ。

 そして、今の俺は君と初めての季節を越えていく。


 


「シン、教えて」
 ステラは少し遠慮がちに、俺の側にきてそう言った。
 俺はというと、艦長に提出を言い渡された新人研修の報告書の作成の為、リビングのテーブルで端末に向かっているところ。つい
数日前からミネルバに配属されてきた、アカデミー上がりの新人クルーたちにMSの扱いを教えるのが、今一番の俺に与えられた仕
事である。
 これがまた、思うより苦労の任務で俺は毎日のようにひいひい音を上げている。いや、昼間新人に音を上げさせているのは俺。た
だ、その後、タリア艦長のダメだしに音を上げるのが俺ってことだけど。
 そのお陰で、ここ数週間帰宅しても仕事をしなくてはいけない状況が続いていた。
「シン、なまえね。シン・アスカ」
「ん?そうだね、どうしたの。急に」
 ちょこんと座ったステラはまだ遠慮がちである。
 少し見上げるようにして俺を見返すステラが堪らなく可愛い。最近、特に思うのだ。彼女は向日葵のようだ。
「・・・・・・何言ってんだ、俺」
「シン?」
「ああ、ごめん。えと、名前だね。改まってどうしたの」
「うん。ステラ、ステラなの。シン、シン・アスカ。ステラと違う」
 そうか。
 俺はステラを見つめた。決して嘆いているのでも、悲しんでいるのでもない透明な瞳のステラは、純粋な疑問をもって自分の下の
名前を聞いていた。
 ステラは、オーブの海岸で発見された。
 アスランたちのお陰で発見され保護の後、俺は再び彼女に会うことが叶った。そして、多くの厚い好意のお陰でこうして一緒に暮
すことができていた。今の生活、そして時間は懸命に前へ進むために努力したステラ自身が獲得したものだ。
 だから俺はあの再会を胸の片隅にしまうようにして、そっと置いていた。
 記憶のないまま目覚めたステラ。少しづつ取り戻している過去の大切な断片をステラは泣いたり笑ったりしながら、日々手にして
いく。そんなステラは自分の名すら、あの時覚えていなかった。
「ステラの名前、か・・・・・・確かに、そうだね。ステラ、なんとかってつくよな」
「とおもう。なにがつくのかな。あるのかな」
 子犬のように瞳を輝かすと、ステラは乗り出すように俺に言った。
「俺、君に初めて会った時に名前聞いたら、ステラって言ったもんなあ」
「・・・・・・アスカ、ほしいなあ」
「え」
 心底羨ましそうに俺を見ながらステラは眉をよせてそう呟いた。
 俺は耳を疑う。
 なにが欲しいって?
「ステラも、ほしい」
「ああ、ああ、うん、そっか。そうだよね」
「シン?」
「ははははは」
 苗字が欲しいって話ではないか。俺のばか。
「あ、そういや、出会った時にアスランさんが調書とってたよな。救助したから。それにフルネーム書いてるんじゃないか?」
 確か、あのスティングってお兄さんが書いていたはず。
「電話してみるよ。ちょっと待って」
 ポケットに入ったままの通信機を取り出して、俺はまだ地上勤務でオーブにいるはずのアスランに連絡をする。アークエンジェルはミネルバと
違って、地上の任務と宇宙の任務が均等にあるようで時に連絡がつかない場合があるのだ。
「・・・・・・あれ、忙しいのかな」
 何度コールしても繋がらないアスランに、首を傾げて俺は切ろうとした。その時、通信機の向こう側で知った声がした。
『シンか?』
「夜分にすみません、カガリさんが出るってことは・・・俺、思い切りお邪魔でした?」
『何を言ってる?邪魔されるのは今に始まったことではないぞ。アスランはお前の方が私よりいいみたいだからな』
「よして下さい、マジで」
 笑い声のする向こう側に俺はうんざりしつつ、隣から輝かしい瞳で見つめてくるステラの額にかかる前髪を除けてやりながら、愛しさに駆られ
て微笑んだ。
『ステラはどうしてる?いるのか?代われよ』
「用件すら聞かずにそっち優先なんだもんなあ。はいはい」
 俺は手にしていた通信機をステラの耳に当ててやる。ステラは少し戸惑いながら、真剣な顔をして通信機を受け取った。
「カガリ?ス、ステラ!」
 取りあえず名乗らねばと思ったのか、ステラは大きな声でそれだけを言った。
『カガリだよ、ステラ。夜風が気持ちいい季節になってきたな」
「う、ん。今夜、お月さま、まあるいよ」
『そうか、今日は満月か。なら、こんな夜は夜桜だな』
「よざくら?」
 ぴんっと肩を躍らせて興味津津のステラの肩を俺はそっと抱き寄せた。
 今だに彼女は機器的なものに戸惑いがあるらしく通信機をこわごわ持って、それえでも聞こえてくる大好きなカガリの声に嬉しそうだった。こ
うしてステラが自分以外の誰かと、こんなふうに笑って触れ合うところが見れるのは喜ばしいことだった。ちょっと複雑な気もするけれど、それ
は俺の独占欲ってことで勘弁してもらうとして。
 そうか。
 桜か。もうそんな季節なのか。
『シンに連れていってもらうといいよ、ステラ』
「う、うん!お、お・・・・・・お菓子、持っていっても、い?」
『ああ。持っていくといいよ』
 ぱあっと微笑んだステラは頷いて俺を見た。なんて可愛いんだろう。素直で可愛い俺の、
「シン」
「え、あ、え?なに?」
 急に覗き込むようにステラの顔が近づいたので、俺は慌てて身を引いた。
「アスラン、戻ってきたって」
「そっそか。ああ、アスランさんにかけたんだっけ」
 本来の目的をすっかり忘れていた俺は頷いて通信機を受け取った。
「アスランさん?」
『シン、どうした。何かあったか?』
 少し急いだふうのアスランの声に、俺は恐縮して返事した。
「すみません。忙しかったですか?」
『いや、助かったよ。ちょっと、な。で?何の用だ』
 話は見えなかったが、邪魔ではなかったようで助かった。俺は座り取り直して、元々の目的を果たすため話を切り出した。
「実はステラの名前のことでお願いがあって」
 話し出すと、ステラは静かに俺の膝から降りてキッチンに去っていく。少し気になったがステラがいない隙に話してしまうことにする。
「俺が一度ステラを助けた際に調書取ってますよね?あれって残ってますか」
 ほんの少し思案するような間があって、アスランは口を開いた。
『・・・・・・一番早いのは、この間見つかったロドニアの研究所でのデータから、だな』
 数週間前に起こったあの事件。
 それは俺にとっても、ステラにとっても、目を逸らしてはならないことへの対峙だった。

 どうにも決めることのできなかった俺にとっては、与えられた試練だったのかもしれない。
 ずっと、ずっと、ポケットに入れたままで渡たせないでいた“誓い”の指輪。箱はもうくしゃくしゃで、見た感じはちょっとだったけど
ほんと給料三か月分っていう俺の一世一代の買い物で・・・・・・。
 マユに言われたことが今でも俺には大きく響いているのだ。
 好きな子へのプレゼントは、一緒に選ぶものいいけれど、用意してくれたほうが嬉しいのだということ。
 まあ、婚約指輪は男一人で選ぶもの、なのかもしれないけれど。いや、本当に緊張したし恥ずかしかった。事前に相談したレイには顰め
面されただけで、知らないといわれるし。
 違う。そういうことではなくて。
 いろいろあって、渡せずにいた俺は(アスランの憂鬱参照で)漸くきちんと誓いを交わすことのできたきっかけでもあるあの事件。

 本当は解決していないことがあるのもわかっている。
 今も、テーブルの端にはステラに必要な小さなケースが置いてある。その中身が、大切な彼女にとって生きる為になくてはならないもの
で、彼女を蝕むものであることは痛いほどわかっていた。しかし、それがなくては誓いすら叶わないこともまた事実だった。
 
 俺はもう何があっても、逃げないし負けないと決めた。
 その思いはステラに救いを与えると同時に、重荷にもなっていることを俺は感じている。だからといって俺にどうすることもできない。
もう彼女を手放すことなんてあり得ないし、誰かに託すことも出来ない。
 しかし、結局はあの研究所から判明したデータがステラを救うことも、それができるのは俺ではなく専門家であるということも、本当
はわかっている。
 俺ではないのだ。
『シン?聞いてるか』
「ああ・・・、すいません。そうですね」
『あのデータに関してはプラント側で管理されている。けれど連合の資料であることからこちらで処理される可能性もあると思う。調べる
にはひと手間かかるだろう。試してはみるが……』
 続きを言い淀む気持ちは痛いほどわかる。きっと、見つけなくてはならないことと、そうでないことがあるのだ。知らずにいられるなら
その方がいいことも。
「ええ。わかってます。無理なら無理で構いませんから」
『そうか。それならいいさ。さっき、桜がどうとかカガリと話したか?』
「ステラが教わってたみたいですけど?」
 そう言えばキッチンでごそごそしているらしいステラはまだ戻ってこない。姿が見えないことに不安になって、俺は部屋を出た。
『もし花見にいくなら、浜辺の桜並木に行くといい。今夜は屋台が並んでいるぞ』
「へえ!本当ですか?この辺りもやるんですね。俺がオノゴロにいた頃もあったなあ、そういや」
 俺はキッチンを覗きこんで、首をめぐらせた。流しの下の開きを開けてステラが懸命に何かを籠に詰めているのが見えた。
「教えてくれて、ありがとうございます。行ってみます」
 ステラは俺の声に、振り返って微笑んだ。手元の籠をそっと持ち上げて中身を見せてくれる。
 そこにはいつも俺がステラに病院で検査の後買ってあげるお菓子が詰まっていた。いつも食べずにしまっていると思ったら、こんなところ
に溜めていたのか。
『楽しんでこいよ』
 アスランは優しい声音で言うと、通信を切った。いつも邪魔ばかりする人だけど、今夜はどうしてか優しい。たまには気を遣ってくれるん
だな。
「それ、どうするの?」
「持ってく。よざくら、お菓子いいよって。カガリが」
 嬉しそうに言うステラが可愛くて、俺は思わずくしゃくしゃとその金の髪を混ぜ返した。されるがままにステラはおとなしくしていたが
立ち上がって、俺の手を取った。
「いこ。シン、はやく」
 こんな夜に出かけるのは初めてかもしれない。
 俺は小さなステラの掌を握りながら、心の中で想い描く。
 

 力を欲してそれを手にした時、俺は世界すら変えてやると思った。叶うとも思った。
 けれど、本当に叶えたいことは、力ではどうにもならないことだ。

 君とデートがしたい、とか。
 こんなふうに夜に出かけて、どきどきしてみたり。
 そんな毎日が続けばどんなにいいだろうと願ったり。

 ねえ、ステラ。
 俺はデオキアで君に出会ったあの時も、そう思ったんだ。

 

 


 

 

 

 ステラと手を繋いで歩く海岸までの小路は静かで、緩やかな下り坂。
 そよそよと吹く海風と、小さく届く波の声。
 
 きらきら光る海面が向こうに見えて、その真上にはまん丸の大きな満月が浮かんでいた。
 澄んだ闇夜に浮かぶ月が、手を繋いだ俺たちの影を作り出してくっついたまま伸びていた。

「ね、シン。よざくらってなに?」
 ステラはおおきな瞳を瞬かせて聞いた。
「花のことだよ。桜っていう植物で、それを夜に眺めにいくことを夜桜見物っていうの」
「さくら」
「そう。こう、書く」
 俺はステラのもう片方の手を取って、その手の平に書いてやる。ステラは興味津々にそれを覗きこんでいたが、書き終える前にひゃっひゃと
笑いだした。
「くすぐたい、シン」
「あとちょっとなのに。もっかい書こうか」
「やめて、やめて」
 笑いながらステラは俺の手から逃げた。
 浜の方へと大分降りてくると、次第に陽気な音楽とざわめきが聞こえだした。いつもは暗い並木の道が、橙色の灯りがともった提灯の行列に
照らされ浮かび上がっている。
 下からライトアップされた桜の木々たちは、薄ピンクの花を華やかに披露していた。
「わああ」
「あれが桜の木。な、花が咲いてるだろ?」
「う!」
 みるみるうちに興奮で頬が紅潮するステラが可愛くて、俺は微笑んだ。その感動が握りあった手から伝わってくる。
「シン、シン、みんないるよ」
 きょろきょろと見回しながら、ステラは行きかう人の往来を眺めた。並木道は家族づれも恋人も、友人同士のものも多くで溢れ返っている。
連なった屋台が両脇に並んでいて、混み合っていた。
「年に一度しかないことだから、みんなお祭り騒ぎするんだよ」
「いっかい?」
「そ。ステラ、この並木通ったことあるだろ?何も咲いていない時」
「うん。ただの緑のはっぱだった」
「それが、一年に一回この季節にこうして咲くんだよ。ずっと、待ってこの春にだけ咲く」
「さく、待って……さくら」
 見上げたままのステラは後ろにひっくり返りそうだった。俺は軽く背を叩いてやって、並木道を進むことを促した。せっかくこんなに賑やか
に屋台が出ているのだ。きっとこんなの初めてだろうから、遊んでいくにほかない。
「ステラ、遊ぶぞー!」
「う?」
 俺は手を握ったまま、混み合った並木道をステラを連れて歩き出す。
 ずらりと並んだ屋台は、ステラの目にどれも珍しく映り、その度にステラは歓声を上げた。
「これなに」
「林檎飴、それは大きいから持って帰ろうな?お土産。今はこっち食べよう」
 買ってやった赤い林檎飴をステラのお菓子の籠にしまって、俺はもう一方の手に持った綿菓子を差し出した。
「たべるの、これ。たべる?」
 ステラは眉間に皺を寄せてその白い綿菓子を凝視した。不思議がる、ではなくもう警戒するの域のステラに俺は噴き出してしまった。
「……大丈夫、食べれるから」
「シン、いじわる。笑う。ステラ、うー」
「いいから、いいから。ほら」 
 千切って差し出してやると恐る恐るステラはそれを口に運んだ。ぱくっと口に入れて、すぐに瞬いた。
「あまいっ」
「美味しいだろ?俺、大好き」
「すきなの、シン?でも。きえちゃった」
 口に含んですぐ消えた甘い綿にステラは未だに訝しげに瞬いている。
「昔、家族でよく祭に出かけたんだ。その時、買ってもらってたよ」
「すきなんだね」
「俺もマユも綿菓子がどうしてか一番好きだったなー」
 ステラは考えるように俯くと、そのまま黙ってしまった。何か言ったか俺は心配になったが、取り合えず手にした綿菓子を差し出すことにする。
「もっと食べる?綿菓子」
「……らない」
「?」
「いらない」
 不意に手を離したステラの腕が俺の手元に当たって、割りばしに巻きついた綿菓子は音もなく砂の上に落ちる。
「!」
 しかもそのまま、拾う間もなく足元で人ごみに踏まれてしまい綿菓子は次に見た時には黒くしぼんでいた。
「あ」
「いいよ、ステラ。また買えばいいし……てか、好きじゃなかった?次、行こうか」
「……」
 一瞬、泣きそうな顔で俺を見上げたような気がしたけど、ステラはまた俯くと頷いた。
 まだ続く屋台の道を、俺はステラと手を繋いで歩いた。きっと気に入るだろうと思ったヨーヨーすくいも、射的も、金魚すくいも、ステラは俯い
たままで動かなかった。もう数件を残すばかりとなった並木道で俺はそっとステラを見やった。
 やっぱり俯いてる。
 赤紫の瞳が地面を見つめたまま、動かない。
「ステラ?」
 返事はない。さすがに俺は不安になった。
「ごめん、俺……なんか言った?」
「そう……ない」
 顔を横に振ってステラは否定する。
「……えと」
 俺はこういう時、どうすればいいのかわからない。
 少し思い返しても、先ほどまでは楽しそうに微笑んでいたのだ。ステラはよっぽどのことがない限り怒ったりしないし、不機嫌にもならない。こ
んなふうに黙りこくっているのも、本当に珍しかった。
 いつでもステラは素直で、隠すこともなく心の内を話してくれる。
 そこに胡坐をかいていたのかもしれない。俺はそう思ってへこんだ。情けない。なんて懐のない男なんだ。
「帰ろっか……」
 こんな状態ではステラだって楽しくないはずだと俺はそう言った。すると、ステラは弾かれたように顔を上げて俺を見た。
「う……え、う……」
 何か言いたくて訴えていたが、言葉にならないらしくステラは口唇を僅かに動かして噤んだ。そして、悲しそうに眼を細めると顔を横に振った。
「シン」
 漸くそれだけ言うと、その瞳に涙が浮かんだ。
「スっステラ!?お、俺」
 驚いて肩に触れようとした瞬間、ステラは来た道を走り戻って行ってしまう。
 人並みの往来に、俺はすぐさまステラを見失ってしまった。焦ってすぐに追いかけるが、思うように前に進むことが出来ず、走りだした時にはも
うステラの背はどこにも見えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 何時間経っただろう。

 俺は途方に暮れて、並木道から少し外れた桜の下で座り込んでいた。
 戻って探したのに一向に見つからない。家に戻ったのかと思って見に行ったが帰っていなかった。携帯をしきりに鳴らしているが出る気配もない。
先ほどまで楽しくて、幸せの相乗効果だった祭の空気は今の俺にとっては虚しさを増す演出となっていた。
「何してるんだよ、俺……」
 小さな幸せを叶えてやりたくて。
 したことないこと、たくさんさせてやりたくて。
 それなのに、そうしてこんなことになったんだろう。思い返してもわからない。思いつくことすらできなくて、俺は俯いた。
「ステラ。どこにいるの」
 不覚にも俯いていると泣きそうだったので、俺は顔をあげた。見上げた視界には満開に咲いた桜が飛び込んでくる。風に揺られて、優しく戦ぐ花び
らがはらはらと俺の上に降ってきた。
 花の雨に、俺は手のひらを開いた。
 着地する花びらはそこにあるのに、ないような感じがする。重さすら感じさせないその儚さに愛しい人の笑顔が重なる。この花びらに触れたら消え
てしまうのではないか。
 ここにあるのに、どうしてこんなに何も感じられないんだろう。

 
 すべてを攫うような風が、地面に募った桜の花びらを巻き上げるように吹いた。

 灯りのない暗闇で月の光だけが、薄ピンクの花を照らして、その花の雨を神秘的に見せている。俺は動けずにそれを眺めていた。綺麗なのに、その
景色は夢みたいで、嫌だった。
 夢は覚める。
 なかったことのように、冷めてしまうのだ。

「シン」

 愛しい人は桜のようだ。
 いつも懸命で、清らかで、それでいて根性がある。
 
 一年に一度しか咲けなくったって、花びらが風に攫われたって、その意志は幹のように太く、花のように可憐だ。
 そんな俺のたったひとりの愛しい人。
 
 俺はどうしてあんな顔をさせてしまったのだ。

「シン」
 
 とうとう幻聴まで聞こえ出した。会いたいと思うばかりに。

「シン?」

 謝る。俺、直すから……

「シン、シン」
「って、わあ!っぃで!」
 見上げていた視界に、ステラのどアップが映る。俺は驚いて後ろ頭をそのまま幹にぶつける羽目になる。
「だ、大丈夫?シン」
 その衝撃で桜の花がはらはらと俺とステラの上に降ってきた。俺は驚いたまま、心配そうに見詰めてくるステラを見返した。不覚にも、何もかも
忘れて見惚れてしまう。
 綺麗なステラ。
 桜の雨をバックに、ステラは戦ぐ風に金髪を靡かせてそこにいた。
「……これ」
 ステラはそうっと呟くと、動けないままの俺に手にした綿菓子を差し出した。
「すきなのに。ごめん、ね」
 俺は息をするのも忘れて見返す。まさか、ずっとそれを気にして……?
「ステラ、ここが……もやもやして……おかしいの。でも、治らなくて……だから、ちゃんと謝らなきゃって思って、でも」
「ステラ」
 やっとのことで名を口にしたが、俺はそれでも動けなかった。
 今、彼女は。
「ステラの、知らないシン。これがすきって言った。でも、ステラも知りたい。ステラもすきって言われたい。でも、どうすればいいかわからなくて
だから……マユや、おとうさん、おかあさん、羨ましくて」
 なんて?
「シン、くれたのに……どうしてか、もやもやして」
 君がいう、それは。
「せっかく、つれ、て、きてくれ、たのに」
 もしかして。
「すなお、になれなくて……シン、かえるって、ステラ、せいで」
「やきもち、やいたの?」
「……」
「これが好きっていったから?」
 こっくりと頷くステラは、我慢していたのかうっくうっくと息を詰まらせた。
 食いしばった口唇が震えている。それでも、一生懸命我慢してもう一度手にした綿菓子を差し出した。
「こ、れ。たべて?シン、すき」
 甘いよ。
 ねえ、ステラ。俺、綿菓子食ってないのにめちゃめちゃ今甘いよ。どうしてくれよう。

 俺はもう迷わずにステラを抱きしめた。力いっぱい抱き寄せたら苦しそうだったけれど、心配させたのだからお仕置きだ。俺がぐいぐい抱きしめる
とステラは綿菓子を懸命に落とさないように必死になっていた。
「それ、ひとりで買えたんだ?」
「う。お店のひと、こう、回させてくれたの」
 なにもないところをかき混ぜるだけで白い雲のような綿がまきつく、あの現象をマユと何度も見つめたことがある。
 何度行っても、何度やっても、二人してその謎を解明することができなかった。原料がザラメだと知った時も、首を捻るばかりだったのである。そ
の好奇心や高揚感を思い出すと今でもあの頃に戻れる気がした。
 ステラの知らない世界。
 それは多くのことで、知っていることのほうが少ない。そんな彼女が、知ることよりも優先して囚われてしまった感情。 
 俺があんなに夢中になった好奇心よりも、ステラの中で勝ったこと。

 そのことに俺、自惚れてもいいかな。
 ステラ。

「たべないの?」
 肩口からそっと聞いてきたステラに、俺は身を少し離してその頬に触れた。
「いただきます」
 重ねた口唇は、甘くてしょっぱい。
 わたがしの味と、君の涙。

 驚いたように開いていたステラの瞳がゆっくりと閉じていく。
 俺は、目の端に映った桜吹雪に微かに微笑む。

 夢じゃないのだ。
 覚めたっていい。ここは夢ではないのだから。
 

 君も、桜も、こうして触れることのできる本物なのだから。

 

 

  

 

 


「どーして、あんた達がいるんです?」
 俺は大いに眉間に皺をよせて、玄関先に立っていた。
「花見から戻ってくる頃だろうと思ってな」
「思ってな、って……何時だと」
「ステラ、桜はどうだった?楽しかったか?」
 聞く気のないアスランは、もう言いながらステラの手を引いて玄関に入っていく。
「ちょっ!」
 慌てて俺は後を追おうとするが、間に合わない。たまには優しいなんて思ったことを取り消す、思った俺が馬鹿だった。
「諦めろって。差し入れに桜の酒、持ってきたぞ」
「カガリさん……」
 朗らかに笑って言うカガリに、俺はもう半泣きで睨み返した。
「ったく……二人で花見してこいって」
「もうしてきたぞ。ま、お前らの話をツマミに一杯やろう!な?」
「もしかして、あんた達」
 決してお淑やかとは言えない笑い方でカガリは笑うと、俺を置いてドアを入っていく。
「……信じられねえ」
 俺のやっとの呟きは、ドアに阻まれてもう誰にも届きはしなかった。

 


 

 


 

名前の話を、書きたくて。その前にちょっと書いておきたかったのです。そして、桜の季節も。

 

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