彷徨う海岸。
 君を想う。

 

 シンにとって、ここへステラをつれてくることは勇気のいることだった。
 記憶がない。
 それがわかったのは、目覚めてすぐのことだった。
 シンは己がどれほどキャパシティの少ない人間だったのか嫌というほど自覚せなばならなかったし、
助けてくれたはずの恩人に無礼を働く始末で、どうにも情けなくて、反省の意味でここへ来たのだ
が、この行動も裏目に出て今に至るのだ。
 連れてくる気なんて、まったくなかったのに。
  連れて行って差し上げたら?そう言ったラクスの笑顔が浮かんで消える。
 重い溜息を漏らし、シンは伏せていた瞳をゆっくりと前方にいるステラへと向けた。
 ステラ。
 心に名前を描くだけで、軋むような痛みを胸に感じた。
「シン」
 ステラが笑う。そして、シンを見つめる。
「なに、ステラ」
「きれい」
「うん。きれいだよ」
 向日葵みたいに笑う彼女が可愛くて、俺の言ったのは君が綺麗だってことで海のことじゃない、思わず駆け寄って抱
きしめたくなる。でも。
 何ひとつ、変わっていないようなのに。
「シン!みてぇ」
 ステラは暗い表情のシンを他所に、物凄い勢いで走り寄ってきた。そして、シンの戸惑って引いた腕を強引に掴むと
水際まで連れてゆく。
 寄せては返す、足元の波を指差してステラは目を丸くして口を開く。
「これ、どうして動いてるの?勝手に、来たり帰ったりする」
「ええと……」
 小首を傾げてステラはじっと真剣にシンの答えを待っているようだ。
 無言のプレッシャーに負けじとシンは見つめ返す。が、波が寄せては返す理由など考えたこともなかった。その為、
結局視線は泳ぐことになる。
「う、海は、ほら、潮が満ちたり引いたりするから……」
「海、みち?」
「え、う、うーん……」
 満ち引きのことを聞いているのに、同じ意味だよな。今のだと。
 シンはとにかくここを切り抜ける為に、わしわしと頭を掻いて笑ってみた。
「うん。ステラ、覚えた。海、みち」
「……ごめん、ステラ。調べとくからね」
「?」
「なんでもないよ」
 そっと言った呟きを聞きとめてステラがこちらを見上げたが、シンはぽんと頭に手を乗せて撫でてやるともう海の
ことは納得がいったのだろう、ステラは徐に履いていたブーツを脱ぎ捨てだした。
「ちょっちょっと!ステラ?」
「シンも?」
「なっなにが!」
 へらっと笑うと、ステラはあっという間に裸足になって寄せては返す波に向かって歩みだした。
「冷たい」
「当たり前だろ…」
 真冬なのだ。今にも空からは雪でも落ちてきそうなのに。
「むこう。いく、そうしたら……」
 ステラはすっと海の水平線を指差して、振り返った。
「あえる?」
 浮かぶ表情からステラが何を想うかは読めなかったが、こちらを振り返り向こうを指差し、海に佇むその姿はなん
とも言えず神々しかった。背後から差す冬の太陽の光が、ぼんやりとステラを縁取って、ワンピースの裾から滴る水
滴が彼女を溶かしているような錯覚を覚えさせた。
 誰にだろう。
 彼女は「誰」に会えるとシンに問うのだろう。
 ラクスが言った「記憶がありませんの」という言葉。何度シンの中をリフレインしただろう。優しい歌姫の声音が
そっと吐き出した言葉は、シンには辛いものだった。
「……シン、ないてるの?かなしい?」
 ステラは差していた腕を下ろし、体ごとこちらを向く。色のなかった表情に今度は心配が広がった。
「泣いてないよ。どうして?」
 問われて、シンは思わず自分の頬を触ったが濡れていなかった。
「ステラ、シンのこと」
 ざっぷ、ざっぷと海の中を歩きながらステラはシンの前に戻ってきた。
「感じたい。そう思って、みる。そうしたらわかるの」
「俺のこと……?」
 こくんと頷くと、ステラは無気力にうな垂れていたシンの手を取って、自分の胸に当てる。そっと。
「ステラ、言葉苦手。かたち、難しい。だからかんじたい」
「ステラ……」
「シン、あえる?」
 もうシンとステラの間に距離はない。それでも彼女は一歩、近づいた。互いの体がとんとぶつかる。
「ステラ、」
「あえる?シンのこと、わかるステラにまたあえる?」
 その言葉は、よく聞こえなかった。大きな波が寄せてきて、勢いよく二人にぶつかったのだ。
「わ」
 冷たい、そう思った時にはもう二人ともずぶ濡れで、海の中に両膝を付いていた。ステラは波に押されてシンの胸に飛び
込む形になり、すっぽりと収まった状態だ。
「大丈夫?」
「冷たい、へへ」
 互いに濡れそぼってしまい、極寒だったがその姿に笑いがこみ上げる。
「ステラ、びしゃびしゃだな。風邪、ひいちゃうね」
 顔にかかった濡れた髪を耳にかけてやりながら、シンは立ち上がろうとした。このままでは本当にまずい。
「待って!シン、ステラ……」
「ちょっ」
 ばっしゃん!
 一瞬にして視界が水中になる。
「ぷはっ」
「シン!」
 シンが下、ステラが上。そんな状態でとまった。勢い余って海中に突っ込まれたが、その後すぐにステラはシンの背
に腕を差しこみ、抱えるようにして上から覗き込んだ。
「し、死ぬから!……あ」
 シンは言って、口を押さえる。しかし、ステラは目を伏せただけで。
「ごめんなさい」
 そして、謝るが開放はしない。
 今の彼女は、取り乱したりしない。いいことなのに。シンは言外に自分の複雑な思いを吐いて、ステラを見上げる。
「ん、どうしたの」
「……ちゃんと、わかるようになるから」
 ステラ、と呼ぼうとした。
 驚かせないよう、水中から静かに腕を出して撫でてやろうと。
「まもる」
 呼ぼうとした口がステラの口唇に塞がれる。
 柔らかい感触と海水の味。
 重ねるだけの、幼い口づけ。
「……テラ」
「ん」
 いやいやと口づけたまま、ステラは顔を振る。離したくない、そう言いたい様だ。
  シンにとって、ステラからこうしてもらえるなんて思ってもみないことで、有り得ないほど嬉しいはずだったが、
心はやけに冷静で、とても「二人はキスしている」ではなかった。
 そして、あまりに場所が悪い。ステラは上半身浸かっていないが、シンは押し倒された為に海水に殆ど浸かったままだっ
た。
 可愛そうだが、離さなくてはと腕をかけようとすると、知った声が背後から聞こえた。
「なにしている!」
 アスランだ。
「馬鹿か!お前!」
 間違いない、あの怒鳴り声。
 よかった、なんとかしてくれる。
「おい……」
 聞こえたアスランの声は遠のいていく。
 シンは寒さに意識を奪われながら、安堵に身を任せ意識を手放した。

 

 

「有り得ない」
 短く、一言呟くとアスランは背を向けた。
「理解に苦しむ」
「そんなに怒るなよ、ね?アスラン」
「キラは黙ってろ」
「でも……ほら、最近の若者って女の子のが凄いっていうよ?」
 キラはにっと笑って、背を向けたままのアスランに尚も言い募った。その肩が震えているのにの気づかず。
「そりゃあ、僕だって二人が海の中で抱き合ってるの見たときはびっくりしたけど、有りだと思うよ」
「馬鹿キラ!」
「はい、すいません」
 あまりの怒号にキラは肩を竦め、背後にいた無反応のシンに「ごめん」とジェスチャーした。その表情に反省はない。
「なあ。もういいんじゃないのか?」
「カガリまでか」
 腕を組んで状況を黙って見ていたカガリが、部屋に集まって初めて口を開いた。
「シン・アスカが強要したわけではないし、当のステラは元気で寧ろ被害者はシンのように見えるがな」
 時折、鼻をぐすぐすいわせているシンを少し見やってカガリは言った。
 次いで、内心で嘆息する。カガリにとってシンとの距離は難しい位置にあった。だから余計に口を出せずにい
たが、このままでは誰もアスランに勝てそうにない。
 ステラという少女。彼女の存在がシンを良い意味で和らげていたし、悪い意味で悩ませていた。だが、そのお
陰で、一言もカガリと話そうとしなかった少年に変化をもたらしていた。
「オーブの海からのお仕置きだけで勘弁してやれよ、アスラン」
 カガリの言葉にアスランはようやく向き直ったが、表情は怒りに溢れたままで部屋にいるキラとシン、カガリ
は暖房のきいた室内でなぜか冷気を感じてまう。
「ほう。仕置きは十分?なら、真冬の海に流れ着いたステラを助けた俺に対する挑戦か?あれは」
「いや、アスラン。言ってること、なんかめちゃめちゃだから。ステラが大事なの、わかってるって。シンは」
 苦笑しながらキラは言う。その声音は彼特有で優しかったが、それでもこの場を和ませることはできなかった。
「大体、まだ完全に療養していない彼女を連れ出すこと自体、おかしいだろう!」
 座っているシンの目の前のテーブルが、アスランの拳で揺れる。
 一同が重い溜息を着いたその時、奥の扉が開いた。
「わたくしが、連れて行って差し上げたらと申し上げましたのよ」
 微笑みを浮かべ、ゆっくりとアスランにラクスは歩み寄った。
「ね、キラ」
「そうだったね。シンは一人で行こうとしてたけど」
 キラと顔を見合わせ、ラクスは微笑する。だが、アスランの表情は変わらなかった。
「馬鹿馬鹿しい。花嫁の父親的気分だろ。シンにとられた気がして、許さないんだ。お前」
「カガリ!誰が父親だ」
「だって、そうだろう?ステラが意識取り戻したとき、お前の喜びようったら。我子が生まれたようだったぞ」
「そっそんなことはない。ステラは遭難していたし、意識が戻ってからも危なっかしいからだな……大体、彼女は」
「はいはい」
 言い訳を並べるアスランを放置してカガリは、一言も喋らず座っているシンに向かって言った。
「気にするな。こいつは妬いているだけだから」
 言うだけ言って、シンの返事は待たずカガリは部屋を出て行った。
 カガリの言葉にシンは顔を上げたが、何か言いかけて口を再び閉ざした。シンは顔を振ると、
「……すいませんでした」
 いきなり立ち上がると、真っ直ぐに頭を下げてそれだけ言うと部屋を逃げるようにして出て行った。
「もう……シン、出て行っちゃったじゃないか」
「俺のせいか?」
 平然というアスランにキラはまたもや苦笑する。隣を見やるとラクスも同じような顔をしていた。
 シンが知りえているかはわからなかったが、キラとラクスにはアスランの気持ちもわかる。彼は知っていた
のだ、ステラを。敵であった頃のステラを。
 ミネルバにシンが無断で連れてきて治療室に運んだ女であり、エクステンデットであることも。そしてガイアのモ
ビルスーツ乗りであることも。それを知った上で、シンが彼女を愛していたことも。
 そして、キラによって彼女の乗っていたモビルスーツが爆破されたことも。
「俺は、あの後を知らない」
 不意にアスランは呟いた。
 苦しそうな表情のアスランに、キラは間を置いて応えた。
「僕が攻撃した後だね。コックピットは大破していたよ、ビームサーベルで突いたのは胸部だったから」
「シンは彼女を連れ出すためにポッドを開けて出て行った。そこまでは見たんだ」
 アスランは噛み殺すように言う。
 必死の形相でガンダムから降り、炎上するコックピットからステラを助け出したシン。だが、もうすでにステラは
動いていなかった。見てられなくて、アスランはシンの慟哭は聞いていない。
 その後のシンの過ごした空白の時間を誰も知らないのだ。
 戦闘後ミネルバに戻らず、シンは一人単独行動を取った。だが尋常でない彼の様子に、戻ってきたシンに誰も何も
問わなかった。艦長でさえ。
「ステラはきっと、一度死んだんだと思う」
 搾り出すように放ったアスランの言葉に、ラクスは頷いた。
「わたくし、そのことを今調べさせています。もしかすると、強化人間といわれるエクステンデットにはまだ明かさ
れていない秘密があるのかもしれません。それはきっと、私たちコーディネーターの問題でもあると思うのです」
 意思を持ったラクスの瞳は、ゆっくりとアスランからキラへと流れる。
「僕もそう思うよ。でもさ」
 立ち上がり、思いつめたように硬いアスランの肩を叩く。
「いいこともあるね。コーディネーターだろうとエクステンデットだろうと、そのお陰でまた会えたなら」
「キラ……」
 無二の友の笑顔は儚くて、アスランは視界が滲むのを感じて慌てて背を向ける。
「ステラがきっと、僕らに未来をくれるよ。シンと幸せになって」
「そうですわね。あの二人なら……ところで」
 ぽんと手のひらを打つと、ラクスは身軽にアスランの前に回りこみ顔を覗き込んだ。
「シンとステラ、どこまで進んでましたの?」
「は?」
 満面の微笑みでラクスは言う。
「ですから、どこまでかしらと。まあ、お外ですしそんな大胆なところまでは……」
「キラ、きちんとラクスと話をしなさい」
 アスランは頭痛を感じながら能天気な歌姫を無視して、同じく能天気な親友を捕まえて命ずる。
「ラクス。じゃあ、部屋行って仲良くしよ」
「はい」
「おい、なんだ。仲良くって!」
 楽しそうに手を繋いで出て行く二人に口をぱくぱくさせつつ、アスランはなんだか空しくなって長い溜息をついた。
「……俺たちの未来、か」
 額に当てた掌を下ろし、見つめた。そこには、誰とも変わらず存在する生命線が頼りないが刻まれている。
「信じることはどうして、こうも容易くないのだろうな」
 誰にでもなく、アスランは呟くとそっと降り出した雪を窓辺に見つけ、その場を動けずにいた。
 あの日も、こんな粉雪が戦場を舞っていたことを思い出しながら。

 

 

「あの」
 女性らしいラインだが鍛えられたその背中に、シンは躊躇わずに声をかけた。
「……なんだ」
 振り返った女性はかつて憎んだカガリ・ユラ・アスハ。
 憎くて、堪らなく憎くて、ぶつけどころの無い怒りを全てカガリのせいにしたことさえあった。今のシンには
それがいかに八つ当たりで幼稚なことだったか身にしみて分かっていた。
 でも、こうして面と向かって話すには、自分の浅はかなプライドと戦わねばならなかったこともあり、オーブに
滞在してもう二日経つが言葉を交わすのはこれが初めてだった。
「ステラのこと、ありがとうございます。それから」
 こちらを見つめるカガリの表情は無表情に近かったが、目が見開かれたのを見ると、シンが話しかけてきたこと
に驚いているようだった。
 シンは拳を握り締めて、唾を飲み込んだ。
 謝って済むことでもないし、謝ることでもないのかもしれない。
 だが、このままでは彼女との関係は進まないことをシンが一番理解していた。
「貴女のこと、俺、ずっと嫌いでした。許せなかった。オーブのことも、貴女のした選択も」
 容易でなかった告白を、やっとの思いでシンは搾り出した。口から吐いてしまえば、いつものシンの言葉だった。
 強く、真っ直ぐすぎる。そんな言葉。
「でも、憎んだ末にようやく気づきました。貴女も多くを失い、傷ついて生きていること。変な言い方だけど、こう
して会わなければ良かったですよ。そうすればずっと憎んだまま、恥ずかしい自分に気づかずにいれたのに」
 苦笑し、シンは頭を掻いた。
 意を決して顔を上げ、カガリがどう感じているか検討もつかなかったが最後まで言い切る。
「今までのご無礼、本当に申し訳ありませんでした」
 すっと勢いよく綺麗に頭を下げるシンに、カガリはどれくらいかわからない程、無言でいた。
 そして、ようやく聞こえてきたのは小さな苦笑。
「……あの?」
 カガリに視線を戻すと、彼女はステラに似た綺麗な黄金の髪を揺らして笑いを噛み殺していた。
「いや、すまん。いや……お前、それで謝っているのか?」
「なんだろう、その言葉……アスランさんにも言われたことあります」
「本当か!駄目だ、我慢できん。はははは」
 一国の主が、人目はばからずお世辞にもお淑やかとはいえない笑い声で、盛大に笑い出した。
その意外な姿に、シンはどう反応していいやら、四苦八苦することになってしまう。
「もう!俺、困るのはステラだけでいいですって」
 思わず、本音が出る。
「ははははは!尻にしかれてんなー」
 更に笑われる始末で。
 シンは半ば解決を諦めながら、この場を離れようかと心の隅に描く。
「アスランがこんなとこ見たら、何言われるやら……」
「悪い、悪い。あんまり面白いからさ、お前」
「思ってないのに謝らないで下さいよ。それ、地なんですね」
「まあな。向いてないんだよ、皇女とか。ラクスじゃあるまいし」
 卑下するわけでもなく、カガリは寧ろ得意そうに言う。
「いいよなあ、お前やアスランたちは。あたしも世界を飛び回りたいよ」
「確かに戦争のない状態で、ガンダムに乗れることは楽しいことですね」
「なんだ、自慢か?お前、嫌なやつだなあ」
 カガリはまだ笑い足りないようで、シンの顔を直視する度に堪えるような仕草をした。それは歳相応の
可愛らしい女の子で、本当に憎んでいた自分が恥ずかしいことを実感することになる。
 全ては戦争が悪いのだ。
 争いが起き、武器を持ってしまった瞬間から、少年少女は子供でも大人でもなくなるのだ。互いに訪れ
ることのない平穏に苛立ち、憎み合い奪い合う。
 なくしたって、殺したって、誰も救われなかった。
「シン、聞いていいか」
 控えめにカガリは呟いた。黙って思いに耽っていたシンは少し構えながら頷いた。
「お前のあの子への想いは家族に対するようなもの、なのか?」
「え……?」
「だから」
 なぜか彼女は燃えるような瞳でシンを睨み、はっきりしない様子に苛つきを隠さず続ける。
「愛している気持ちは、守りたいという気持ちは、女としてか?妹のようなものか?」
「か、カガリさん」
 その勢いは迫るものがあって、シンは後退った。しかし、カガリは退く気はないらしく、さらに言い募った。
「答えろ。ステラのこと、どうするんだ?」
「カガリ」
 眼前に迫っていたカガリの顔が、急に離れたかと思うとその背後にはアスランが立っていた。
「離せ!アスラン」
「廊下で何をしてるんだ?一体」
 カガリの襟首を掴んで離さず、アスランは怪訝な顔つきでシンを見た。
「いえ、俺にもよくわからないです」
 思わず安堵の溜息を漏らしながら、シンはアスランに答える。カガリはまだ諦めがつかないようで、じたばた
しながら抗議しているようだ。
「シン。助かったって顔してるぞ」
「え、はあ……まあ、実際そうですね」
「お前が素直だと、奇妙だな」
 ひょいっと片方の眉をあげてアスランは言う。その様子はいつもの冷静な彼のもので、先ほどの怒りはとりあ
えずは収まったのかもしれなかった。
「ほら、行くぞ。カガリ」
「いい加減、離せ!!」
 襟を掴まれたまま、カガリはアスランに引き連れられる形で歩き出した。
「シン!答えは!」
 必死の形相でまだ聞いてくる辺り、その答えに何かを重ねてるように感じた。シンは苦笑しながら、前を行く
アスランの背を見やる。この二人も色々あるのだろう。
 答えることはしない代わりに、シンはステラを想うだけのありったけの気持ちでカガリに微笑んだ。
 言葉に、そう、まだ言葉にもできないくらい俺は「自分」が信じられないんだ。

 


「どうしましたの、ステラ」
「……ラクス」
 シンと海から帰ってきて目が覚めたステラは、随分と口数が減っていた。
「初めてここへ来て目覚めた時はあんなにお話してくれましたのに。シンが来てから……違いますわね。シンと
お話してから、ですわね」
 口元を硬く結んで、ステラは俯いたままだ。ラクスにとって身分も己の運命も、何もかもなしに話す事のでき
るステラは、本当に可愛い妹のようだった。だからこそ、本来ならそっとしておくことも放っておけなかった。
 傷だらけで海岸に倒れていたステラ。
 見つけたアスランがこのオーブへ連れて帰ったのが、一月前。カガリに会いに来た際にラクスは出会った少女に、
とても感銘を受けた。記憶ごと何もかも失くしてしまったというのに、よく笑う子だったのだ。そしてよく歌う。
 胸にある貝殻のかけらだけが、彼女の所有物だった。それを何か問うと、笑顔で言うのだ。
 “シン”と。
「ねえ、ステラ。お外に、行きませんか?」
 とても外出などしたそうではないステラだったが、こうして毎日部屋で同じように膝を抱えていたって彼女に
とって良くないだろう。
 ラクスはステラの手をとると、半ば強引に引っ張ってたたせた。
「さあ、行きましょう」
 もう冬のやってくるオーブ。出かけるといっても、遠出は出来ないがラクスには見せたいものがあった。
 ステラの見たことのないだろう、景色を。

 

「わあ!」
 扉を開け放つと、そこは真っ白で何もかもが埋もれていた。
 ステラは思わず感嘆の声を上げ、何も考えずに進みだす。足元が白いものに捕られて動きにくかったが、さくさく
する感触に楽しさが込上げた。
「ひゃあ」
 前へ、そう思った瞬間、ステラはもう白いものへとタイブしていた。
 すると背後から穏やかなラクスの笑い声が響く。
「つめた……」
「どうです、気に入りましたか」
 少し離れた場所からラクスが尋ねる。うん、と頷くと頭からさらさらと白い粉が落ちる。
「これ、なに」
 一面の白いものを指差すが、何故かラクスは笑うだけで教えてはくれない。
 小首を傾げ、ステラはとりあえず立ち上がった。服の中にも白い粉が入り込んだようで、あちこちが冷たい。
「水?」
 服をばたばたさせて粉を出そうとすると、すでにそれは水滴となっていた。
「これ、みず?でも」
 積もったそれを触ってみる。硬い。水ではなさそうだ。ますますわからない、ステラは眉を寄せて白いものを
睨んだ。
 その様子は一生懸命で、ラクスは見つめながらそっと微笑んだ。妹がいたら、こんな感じかもしれない。いや
もしかしたら、子供がいればこんな風なのかも。そう思うと、ますます頬が緩んだ。
「あら……」
 ラクスは目を瞠った。
 ここはカガリの所有する別荘の中二階で、真ん中だけがすっぽりと吹き抜けの中庭になっており、庭園は雪景
色でまるでスノードームのようだった。
 そしてこの中庭は三階から鑑賞することができるようになっている。その一番のスポットであるソファにシン
の姿を見つけたのだ。
「ステラ、がんばるのですよ」
 見やると、ステラはスノードームの景色にすっぽりと収まり、くるくると回り歌っていた。
 ラクスはそっと手を組んで祈ると、硝子の扉を潜ってその場を後にした。
「……あ」
 何かが頬に当たった気がして、ステラは踊っていた足を止め見上げた。
 ふわふわと白いものが舞うように落ちてくる。
「これ……」
 手のひらに乗せてみるが、すぐに消えてしまう。
「シン」
 ステラは大きな瞳を空に向け、瞬きも忘れて一心に見上げた。
 しん、しん、しん、しん。
「シン」
 音がする。音がする。
 白い羽がしん、しんって音をさせて、歌うように愛しい人の名を奏でながら舞い落ちてくる。
「消えない……消えないで」
 真っ白な頬を、突然に大粒の涙が伝う。
 それは不意にやってきた感情。
 消えないで。
 なんだか、今は忘れた何かが還ってきている気がするから。
「すき……」
 これ見たこと、ないはずなのに。
 知っている気がした。
 見上げると、しん、しんと白い羽が落ちてきて、どうしてか自分を覗き込んでいる大好きなシンはたくさん泣いて
る。その涙を拭いたくて手を伸ばすのに。なんだか、前が見えにくくて。
「ぅぅあ、あああああ」
 ステラは空を見上げたまま、一面の真っ白な雪の上に膝をついて泣いた。
 訳も分からず、声を上げて泣いた。
 わからない。わからないのに、どうしてだろう。
「ァウル……スティン…グ、ねお……!」
 浮かんでは消える言葉。
「ねお……」
 息継ぎもせずにステラは泣いていた。次から次へと頬を涙が伝い、落ちては雪を溶かす。
 細い体はぱったりと背を地面に預ける。そう、この方が見上げやすい。
 見つめていれば、思い出せる気がした。
 言葉の意味を。

 

 泣いている。
 真っ白な雪に埋もれて。
 彷徨うように、求めるように空へ腕を伸ばして。
「ステラ……!」
 シンは思わず、ソファから立ち上がってガラス窓に拳をついた。
 思い出す。
 見下ろしたそこに映るステラの姿は、シンがかつて見た姿と重なって見えた。
 落ちてゆく。深く、深く沈んで、湖の底へ。
 安らかに。暖かい場所へ連れて行きたいと願ったのに冷たい水の中へでは、そう祈ることさえ出来なかった。
 鮮明に思い出されるのはいつでも、沈みゆく中、求めるように漂ったステラの腕だった。そこに魂はもうない
のだと、言い聞かせて眠りにつかせたあの日。
 シンにとって、後戻りを許せなくしたあの日。
 何故、何故俺にあの腕を手繰り寄せることが許されなかったのか。
 憎んだ。手当たりしだいに。
 俺が何を今まで望んだというのだ。何を手にしたというのだ。
 何ももらっちゃいない。せめて、それぐらい許してくれたって良かったじゃないか。力なんていらない、本当
はガンダムなんて乗れなくったって良かった。力ではなくて、あの腕がほしかった。
 ステラ、ステラ。
 この名を、また呼べる日が。
「俺は……!」
 己の心が、この硝子のようだった。
 隔てるものなど、本当はないはずなのに。今すぐにでも、スノードームの中の愛しい人を腕に捕らえたいという
のに。足は床にくっついたように動かなかった。
 強い力で額を硝子窓に押し付け、シンは嗚咽を漏らした。
 争いも、戦争も、終わったというのにシンの心は何も決着がついていなかった。
「……ステラ。そこは冷たいよ、そんなところじゃあ……抱き締め、られ…ない……」
 ずるずると床に膝をつき、シンは堪えきれない涙を拭って震えた。
 視界が滲む。
 その先にステラがいるのに。
「行けよ」
「……アス、ラン」
 突然の声にシンの背が震える。振り返ることはできなかったが、背後でする声は怒ってはいなかった。
「シン。俺はあの時、レイのようにはお前を理解してやれなかった。だが、今は違う。なあ、シン。もう戦争は
終わったんだ。お前は、お前なんだ」
 シンにとって、かつて行き違って道を違えてしまったアスランからそんな風に言われるなんて、思いも寄らず
心は幾分か人心地に戻ったが、それでも動くことができなかった。
「何を恐れている?」
「怖い、そう……怖いんだ。俺は、俺は!」
 涙も拭わず振り返ったシンの叫びは、悲痛で悲しかった。
「失った。多くを失った。それに耐えるには憎むしかなかった。戦うしかなかった。でも……今の俺は?どうした
らいいのかすらわからない。これは夢?失ったんだ、確かに。俺の手で湖に沈めたんだよ!ステラを!」
 粉雪が舞う湖。
 フラッシュバックする記憶。
「求めてくれたのに!その手をとることも、救うこともできなかったんだよ!冷たい場所にしか連れて…いけ…
ぁあ……」
「シン」
 ゆっくりアスランはシンの側に膝をつくと、その肩を叩いてやる。
 嗚咽は悲しい悲鳴で、今まで吐露したこともないだろう深淵はシンに鎖となって絡まっていた。頼りない背は
自分であるようで、アスランもまた胸に痛みを感じた。
「ラクスが、言うんだ。ステラは俺たちにとって未来なんじゃないかと」
 歌姫の言葉は優しくて、シンは息も出来ない。
 奇跡なんてものこの世にないことを嫌というほど実感してきた少年たちには、救いというものに縁遠い。だから
こそ、いつでも「未来」に憧れた。
 奇跡が起きなくても、明日はやってくる。だから、明日という未来に懸ける。
「だから、シン。行けよ。今度は皆で守ろう、お前は一人ではないんだから」
 暖かい。暖かい言葉はあるものなんだ。シンは涙に濡れ顔を上げ、アスランを見た。その笑顔に勇気を貰った
気がして、シンは真っ直ぐに立ち上がった。
「ありがとう。皆にも伝えて」
 背を向けて、それだけ言うとシンは振り返らず階段を駆け下りていった。
 アスランはふっと苦笑し、背後で隠れて成り行きを見守っていた者達へ視線をやる。
「だってさ」
 アスランの言葉にぞろぞろと出てくるのは、カガリ、ラクス、キラだ。
「うまくゆくといいですわね」
「いくさ」
「そうだな」
 口々に言って、アスランの側まで来ると皆してそっとこれから始まる物語を見下ろした。

 

 

 君は死なない。俺が守るから。

 まもる?

 そう、俺が君を守る。守ってみせる。

 シン、ステラ、守る。

 そう。

 シン。

 ステラ、俺のこと、忘れないで。


「泣いてるの」
 ステラはゆっくりと腕を持ち上げて、その愛しい人の頬へと触れた。
 自分を見下ろすその瞳からは止めどなく、涙が溢れ出す。拭っても、拭っても止まなかった。
「シン」
 呼ぶと、触れていた手を握られる。その確かな強さにステラは安堵した。
「あったかいね、シン」
 愛しい人の掌はいつでも暖かかった。
 初めて知ったぬくもり。出会った時、抱き締められたあの力。貰った言葉の優しさ。
「シン、いつも、あったかい」
「…テ…ラ」
「ちゃんと、呼んで、みて」
 ずっと雪に背を預けて空を見上げていたものだから、顔にまで雪が積もっているようだった。ステラは
少し顔を振り、かかった雪を落とすといつものように瞳をくるくる動かした。
「シン?」
 なんて苦しそうなんだろう。
「ステラ」
 呼んでくれた。嬉しい、気持ちが溢れてステラは笑顔になる。
「はい」
「ステラぁ……!」
「し、」
 起き上がろうとしたステラだったが、そのまま再び雪に背を預けることになる。
 抱き締めてくるシンの力は痛いほどで、腕に収まっているにも関わらず確かめるように何度も何度も力が
込められた。
 もどかしい。もっとステラに言葉があれば。
 きっと、もっと、シンがそうしてくれるようにステラもあったかくしてあげられるのに。
『ステラ、すきなひとにはね。こういうの』
 ああ、そうか。こういう時に言うのかな、ねえ、ラクス。
「シン。あいしてる」
「え」
 ステラの肩に顔を埋めていたシンが、がばっと顔をあげた。その表情は、驚いているようだった。
「まちが、えた?ステラ」
「え、や、そうじゃなくて……な、なんていったの?」
「あいしてる」
 ラクスに教わったとおり、もう一度、今度はシンの顔を見ていってみる。だが、当のシンはますます目が見
開かれ驚くばかりのようだ。
 おかしい、あったかくなるはずなのに。
「シン、あったかくならない?ステラ、へた?」
 今度こそ、シンは全く反応しなくなってしまった。ステラを組み敷いたままの状態で、微動だにしない。
 その表情は固まったままで、とても温かそうには見えない。
「ステラ、ごめん、ステラ、間違えた」
 シンはどうやら息もしていないようだ。息をするのを忘れるほどショックなのか。ステラはなんだか悲しく
て目を伏せた。
 どしてだろう。ラクスに言ってもらった時、物凄くあったかくなったのに。
 キラがラクスにその言葉、貰っている時は本当に暖かそうで、こちらの胸まで熱くなったというのに。
 何が足りなかったのだろう。
「シン……」
 ステラは一向に動けないでいるシンを放って、一人懸命に思い出そうと必死だった。ラクスはキラにどう
していただろうか……。
 確か。
「あいしてる、シン」
 まるで動かないシンの肩にステラは捕まって体をシンに寄せると、そっと何か言いかけて開いたままのその
口唇にゆっくり優しく触れた。
 ああ、心があったかい。ここに触れると、なんだか安心する。
 シンもそうだといいなあと、ステラは静かに瞑っていた瞳を開くと、シンはまだ固まっていた。
「シン?」
「だー!!」
 ステラは驚いて思わず、捕まっていたシンの肩を離した。
「な、え?な、いや、ステラ、あの」
 よく分からないが、シンは怒ってるのではなさそうだった。不思議そうにこちらを見ているようだが、シン
がここにいて、自分を見てくれているのならそれでいいとステラは微笑んだ。
「シン、ステラ。まだ、全部わからないけど……わかったこと、ある」
 ステラの言葉にシンは一つ深呼吸すると、雪に埋もれた小さな黄金色の頭を掬って起こした。
「うん」
「ステラ、死ぬ、だめ。だから戦う。怖いもの、全部なくす」
「……うん」
「アウル、スティング、それから……ねお」
 ねお、そう呟くとステラはそっとシンの手を取る。握って、約束を交わすように続けた。
「ステラ、シンのこと忘れない。シン、ステラに会いにきた。ステラ、シンといる」
 紡ぐように大切にステラは言葉にした。
 いつも眠ると暖かい言葉は消えてしまう。でも、今は違うようだった。だから、忘れないよう、いえるよう、
可能な限り言葉にしたい。ステラの中で、思いばかりが大きくなってしまい、こういう時もどかしい。
 もっと、話したいの。シンと。
 そう思ってシンを見つめたら、綺麗な朱色の瞳から透明な涙が落ちてゆく。次から、次へと。
「ごめん。ごめん……」
 シンはそう繰り返して、なぜかステラの顔を両手で挟み、確かめるように触った。まるで宝物でも触るみたい
に、優しく。何度も。
「ステラ、俺、ステラを守れなくて。ステラに会えなくなって」
「寂しかった、シン。ステラ、いない」
「ばか!寂しいなんかじゃない、俺はもう俺でなくていいから、それでも君に……っ」
「どこも、いかないから」
 神に祈ったことなんて、一度もない。神なんて、いない。それなのに。
 シンは心から、祈った。
 時が来て、なにもかも自分から奪うのだとしても、ステラだけは奪わないでくれと。
 いつかステラのために、世界が滅んでもいいなんて祈らないように。
「俺、情けなくてごめんね。ステラ」
 涙を手の甲で拭うと、シンはそっともう一度ステラの頬に手を添えた。
「キスしよう」
 言葉の意味も知らず、ステラがシンにくれたもの。
 シンはもう何も考えず、ただ、本当に今ここにいる自分でステラに口づけた。
 最初は触れ合うだけのキス。
 ゆっくりと確かめあうキス。
 ようやく、互いを求め合う深いキス。
「シ……ン、あったかい」
「うん。俺もだ、ステラ。あったかい……」

 


 二人の小さな頭が重なり合うのを見て、一同は甘い溜息を一斉についた。
「ああ、もどかしかった!」
「ですわね」
 カガリとラクスは互いに言いながら、肩を解している。中庭に釘付けだった為に、変な体勢でずっと覗いて
いたのだ。
 一方のアスランとキラは、のんびりソファからの見学だった。
「映画のようだったね」
「にしても、シンは男としてどうだ」
「どうして?」
「最初だよ、最初。固まったまま、息もしてなかったぞ。あれは」
「ははは、ステラの大胆さにね」
 キラは呆れて半眼のアスランに苦笑しつつ、まだ離れがたく仲良くくっついている二人の頭を見やった。
「でも、本当良かったね。シンはどこか不安定で辛そうだったし」
「失ったものは戻らない。半身を削られてもなお生きていかねばならない場合、不安定にもなるだろう」
「うん」
 頷いて、心に描く。もしラクスを失ってしまったら。
 考えるもの恐ろしい話だ。そう思うと、シンは今まで辛いなんてものではなかっただろう。だからといって
憎しみを他人にぶつけていいわけではなかったが、逆の立場なら責めれないだろう。
 それはアスランも同じだった。
 戦うものは、皆同じだった。失わないものなんて、ないのだ。
「悲しいな。その覚悟があろうが、なかろうが戦場には立たなくてはならないのだから」
「いいではないですか、もう、終わったのですから。二度と起こらないよう、わたくしたちは努力するだけ」
 もう、悲しい思いを誰もしなくて済むよう。
 ラクスの言葉に、キラは深く頷き微笑んだ。
「さあ、あのバカップルをそろそろ引き戻そう。じゃないと、風邪どころじゃなくなる」
 カガリは言うが早いか、颯爽と階段を下りていった。
「絶対、あいつ邪魔したいだけだよな」
 溜息混じりにアスランは言うと、確かにそろそろ叱らなくてはならないと立ち上がった。

 

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