この世とは、多くの出来事があって、多くの人がそれぞれの時間を生き礎を築く場所。
 「命」のあるものたちが、作り上げる場所。
 
 そして、再生を繰り返す、輪廻の場所。

 

 そう、命あるものは生まれ、朽ち、また生まれる。そうして大木の輪を紡ぐものとなる。
 いつか、死ぬ。
 いつか、なくなるもの。
 明日が、次のいつかを継ぎ、終わったいつかは昨日へ還る。
 進む者が明日を築く限り、この連鎖は終わらない。


 君は死なない。大丈夫。
 俺が守るから。絶対に守ってみせるから。


 死ぬことがないことなんて、ない。
 でも、あの瞬間、俺はこの子を死なせないと思った。死ぬことなど、選ばせないと。それがたとえ、不可能なことで
あっても。あり得ないことであっても。
 それを塗り替える、それほどの思いだった。
 
 そして、夢のつもりもなかった。
 叶えてみせる、それが俺の戦う意味になった。


 
 ねえ、母さん。
 俺、守りたい子がいるんだ。ずっと、いつまでも。
 一度失ったはずの、叶わないはずの約束が果たせるチャンスをもらえたんだよ。
 俺、できるかな。


 ねえ、父さん。
 いつだったか、俺に“お前は乱暴でがさつだから、可愛らしいお嫁さんは期待できそうにないな”って。そう、ぼや
たことあったよね。
 凄く、可愛いんだ。壊れそうなくらい儚い、花みたいな子だよ。
 父さん、絶対気に入るよ。


 マユ。
 俺、ずっとお前にさ、いえなかった。
 お前の分まで、兄ちゃんが頑張って生きるからって。
 今でも、ちゃんと言葉にはできそうにないんだ。本当は。でも。

 でも、俺も漸くお前に胸が張れるようなこと、できるかもしれない。
 きっと気に入るよ、マユ。
 きっと、俺のこと見直すさ。
 
 わかってる。今度こそ、もうなくさないから。
 人は、一人だもんな。だから、愛し合い、分かち合うんだな。
 兄ちゃんがこんなこと言ったら、お前、笑うだろうな。
 でも、大丈夫。本気だから。
 

 俺、みんなに胸張って会えるように、頑張るから。
 今までグズってて、ほんとごめん。
 俺は今、幸せだよ。

 

 
 手向けた花は、潮風に微かに揺らされ、百合の香りが鼻腔をくすぐった。
 シンは、そっと手を合わせて立ち上がると、慰霊碑の向こうに見える海を眺めて背を伸ばした。
 オーブは冬真っ只中で、空は今にも雪が降り出しそうな曇り空だった。
「降りそうだな……」
 吐いた息が真っ白になる。シンは不意にかぶっていた毛糸の耳当て付きの帽子に触れた。寒さを感じたわけではないが
急に確かめたくなった。その感触を。
 必死に山路を登り、恐怖に慄きながら避難しようと走ったあの日。
 この空を、血の雨を降らせた天使が舞った日。
 この帽子をかぶると、耳にあの旋律が戻り聞こえてくるような気がした。
「……マユ、いいよな。俺、いいかな……」
 妹が叱咤する声がきっと、天から降って落ちてくるだろう。
 どうして、私に許可とる必要があるのよ、と。いつまでも私の名前呼んでると彼女逃げちゃうわよ、と。
「一度、思ったことがあるんだ。誰にも言ったことないけど……この世なんて、めちゃくちゃでいいって。そうしてやる
とも思った」
 シンは言って、深く息を吸い込む。冷たい空気が胸を占めた。
「みんなが生きていた方がよかったって、思う明日じゃなくて……知らなくてよかったって……そう思うような未来でい
って」
 心まで冷えるような空気は、シンの中を通って熱を帯びた白い息となって吐き出された。
「本気でそう、思ったことがある」
 何度泣いただろう。枯れるほど流した涙はとうとう枯れることはなかった。幾度、情けなくも泣いただろう。シンは一
人歯を食いしばって、拳を握り締めた。
 もう、泣かない。
 思い出す度に、こうして深淵に立っても、あの場所には帰れない。あの時間は戻らない。
「今度こそ、俺は前に進む。心配しないで」
 ゆっくりと拳を緩めて、シンは笑顔を海に向けた。
 こんなふうに、一人でここに立って笑える日がくるなんて思っていなかった。
 
 ありがとう、ステラ。
 もうどこにも、行かせない。

 

 

 

 男の決意を知らせる、だから一人で行くねとシンは言った。
 寒い日だった。
 ステラは立ち上がって、曇った窓ガラスを服の裾で拭いて外の様子を窺った。向こうに見える海も空もどんより暗くて
寒そうだった。小さいけれど、微かに見える岬に慰霊碑はある。
 きっと、一人でシンはそこにいる。
 吐いた息で、また窓ガラスが曇った。ステラはなんとなく怖くなって、岬が見えるように急いで窓を拭いた。
 
 シンは一人、何を想うのだろう。
 きっと、家族のこと。
 きっと、お話をしてる。

 ステラにとって、淡い記憶の中に眠る人たちはシンの大切な人たちと同じで、きっと大切な人なのだと思う。けれど、頑
張って思い出そうとしても記憶は蘇らなかった。顔は浮かぶのに、名も呼べるのに、過ごした時間の一片すら浮かばなかっ
た。
 おとうさん、おかあさん、知らない。
 一緒はネオ、スティング、アウル。きっと、ステラには“かぞく”はいない。
 それだけしか、わからなかった。

 窓ガラスに両手をついて、ステラは窓を擦った。
 少し滲んだ向こうの景色に、目を細めて呟く。

「ステラ、うみからきた。ステラ、みんなとちがう。みんなは」
 すっと目線を後方のカーペットに移した。
 そこには読みかけの絵本が開いたまま、置いてある。いつもラクスが貸してくれるが、あれは自分で本屋に行って選らん
だものだった。
 人間の歴史の本。人間がどうやって生まれたのか、書いてあるもの。
「おかあさん、おとうさん……愛からうまれる」
 人間は、人間は。
 ステラは胸を掴んで目を伏せた。なんだか息が苦しい。考えすぎたもかもしれない。
「……う」
 顔を振って、ステラは無意識に玄関に向かった。苦しい胸を掴んだまま、必死に這うようにして進み、玄関の扉を開く。
 凍るような寒さが扉の向こうで待っていた。それでもステラは頼りない足取りで、外へ出た。
「シ…ン……」
 苦しむように呻いて、ステラは家の前の小道に膝をついた。
 今までに感じたことのないような傷みが胸を襲う。息をすると全身に刺すような痛みが走った。
「シ、」
 嫌な汗が額に浮かび、もう体を支えることも叶わずステラは短い息を繰り返しながら倒れた。
 視界が霞む。目の先に映った自分の手が異様に真っ白なことに気づく。
 なにこれ。
 なにが起こっているのだろう。
 苦しい。シン。
 どうしよう、前が見えない。見えなくなる。
 
 今にも意識を手放そうとした時、ステラの視界の端に黒い革靴が立ち止まるのが映った。

 


 
 

 定期健診をと勧められてカガリに紹介された病院はシンにとって、もう来慣れた所のひとつだった。自分が病気らしい
ものをしない為、はじめは不慣れだったものの、今では常連状態である。
 深く毛糸の帽子をかぶったまま、シンは廊下にあるソファに座っていた。
「シン!」
 かつかつと足音がしたので顔を上げると、アスランが冷静さを欠いた声で駆け寄ってきたところだった。
「アスランさん」
「どうした?何があった」
 アスランは軍服のままで、任務後もしかしたら任務中なのかもしれなかった。
「わからないんです。医者にも理由はわからないって」
 シンは答えると、深い溜息をついて椅子に座りなおした。目の前は病室だが、まだ診察中らしく入れないようだった。
 顔を振って、深呼吸するとアスランも隣に腰を下ろす。
「……ちょっと出かけてて、帰って来たらステラが玄関で倒れてて」
「そうか……苦しそうだったのか?」
 顔を横に振って、シンは俯いた。
「少し、疲れただけじゃないか?最近よく外に出ているみたいだし」
「ええ……だと、いいんですけど」
 カガリの手伝いがしたいとステラは最近孤児院などでラクスの助手をしたりしていた。慣れないことをして疲労が溜まっ
たのかもしれない。シンが見つけた時も、眠っているように気を失っていただけだった。
「そんな顔、するな。らしくないぞ」
「はい」
 アスランの声に俯いて堪えた。肩を叩いてくれる強さがシンを人心地に戻す。無言のまま二人で病室の扉を見つめた。
 シンの抱く不安は、今日に始まったものではなかった。
 このまま意識が戻らないのではないかと考えてしまう気持ちは、ステラを取り戻してからずっとだ。
「……これからなのに」
 そうアスランは呟いた。
 シンには顔を上げることができなかった。抱えた不安にも、アスランの気持ちにも。

 

 

 

「シン」
 許可が出たので入室した時にはベットの上でステラは目覚めていた。
「ステラ」
 シンはまっしぐらにステラを抱き締めにいった。シンの肩口から覗いたステラ顔はいつもの彼女だった。後ろにいたアスラ
ンも安心して、微笑んだ。
「ごめ、ね。シン」
「ステラ、大丈夫なの?」
「うん」
 抱き締めた腕を離さずにシンは何度も問う。背後でアスランは呆れた顔で嘆息した。
「こいつ、さっきまで顔面蒼白の幽霊みたいだったんだぞ、ステラ」
「アスランさん!」
 良かった、いつものシンである。アスランは口には出さないが、安心した。
 顔色が良いのも見て取れるほどのステラに、シンもアスランも安堵の笑みを浮かべた。次いで、互いに苦笑する。自分達は
心配しすぎなのかもしれない。
「お医者さん、なんて?」
「疲れ、出たって」
 シンに問われて、ステラはたどたどしく言う。
「あと、ちょっとねぶそく」
 迷った感じで俯いたステラを見て、アスランはシンを突き飛ばす。
「寝不足?シン、お前まさか」
「な!なんにもしてません!」
「おい、俺はまだ何も言ってないぞ。妖しいな」
 睨みあう二人をステラは笑って眺めた。二人揃うといつもこんなふうだ。
 言い合いに夢中で、どちらもこの時ちらっと浮かべたステラの表情には気づかなかった。

 

 

 

 

 その後すぐに帰っていいと許可が出て、シンとステラはアスランに車で家まで送ってもらった。アスランはそのままカガリの
護衛に戻るようで、家には上がらずすぐに行ってしまった。
 帰ってからは、シンがステラに何もすることを許さず、すぐに着替えさせてベットに連れて行く。
「ステラ、もう今日は寝ような」
 シンは少し心配そうに微笑んで、掛け布団を引っ張ってやる。
「シン、いっしょ?」
「今日は隣のベットで寝るよ。狭いだろ?大丈夫、ここにいるから」
 室内にはベットが左右に二つ置いてあるが、大抵は一つのベットに二人で寝ていた。ステラは一人がとても嫌なようで頻繁
にシンのベットに潜り込んだ。別々に寝ても結局同じことになる。
 でも、寝不足と聞いてはシンとしては今日ばかりは一人でゆっくり寝かせたかった。
「でも。シン、あした」
「うん、仕事なんだ。でも、明日はオーブで事務処理だし早く帰ってこれるから」
 優しいシンの声にステラは瞳を翳らせた。逸らされた瞳があまりに寂しそうで、シンは思わずステラの額に触れた。
「寂しいの?」
「シン」
 触れられて安心したように、ステラは視線を上げた。でもまだ瞳は不安そうに揺れている。
「おねがい。いっしょにねて」
 額から移動してステラの髪を撫でてやると、シンは立ち上がった。
「わかった。風呂入って寝る用意してくるから、待ってて」
 離れていく手を恋しそうに、ステラは手を握ってきた。でも、待っててと言われた言葉を思い出したのか手を引っ込め
た。後ろ髪引かれる思いで、シンは部屋を出る。
「すぐ戻るから」
「うん」
 ぱたん、と扉が閉まってシンが見えなくなる。
 途端にステラは寒さを感じて、布団の中に頭ごと潜り込んだ。全身がかたかたと寒気を感じて震えた。
「う……」
 息を吐いて、胸を掴む。
 掴んだその手を離して、暗闇の中で見つめた。
 普通の色をしている。血の通った色。
「……」
 昼間のあれはなんだったのだろう。
 そして、あの人は誰なのだろう。どうしてあんなふうになったのだろう。
 思い出して、ぞっとする。気持ち悪いほど、真っ白だった自分の手。あの瞼の重さ。逆らいようのない痛み。忘れていた冷
や汗が駆け上がってくるようだった。
 ゆっくり息を吸って、ステラはそっと布団を抜け出した。
「……ふ」
 シンがいないか確認してステラはリビングに足を運ぶ。なんとなくまた息が出来ないきがして、胸を掴む。数回呼吸を繰り
返し、なんとか引き出しの前にたどり着いた。
 開けた引き出しには、宝物を詰めてある小瓶と、その隣に錠剤の入ったケースがあった。
「う、く」
 ステラは口元を押さえて膝を折った。引き出しになんとか掴まって耐える。震える手でケースを取って、荒い息をしながら
なんとか手のひらに落とした錠剤を飲み込んだ。
 霞む視界に飲み込んだ錠剤の入っているケースが映る。ケースには少しの数しか入っていなかった。このペースで発作のよ
うに起きれば、明らかに足りないだろう。
「シン……」
 愛しい人の顔が浮かぶ。優しい声、愛しい笑顔。
 思うだけで、心が温まった。その温かさを失いたくなくて、病院では言えなかった。とても。
「う……」
 効いてきたのか、息が楽になる。なんとかステラは立ち上がって、ケースを元に戻し気づかれないように部屋に向かった。
 

 必ず、君は訪ねてくるだろう。
 それが必要なはずだから。


 頭の中をぐるぐると、知らない人の声が回った。
 気を失う前に見た靴の先。聞こえた言葉。まどろみの中、感じた浮遊感と握らされたケース。

 
 ステラはなぜ、シンにこのことが言えないのかわからなかった。
 わからないが、どうしても話せなかった。
 今はともかく、あの腕の中にいたい。抱き締められていたい。
 シン、はやく。

「ステラ?ねたかな」
 静かに扉を開け、シンは入ってきた。
 ステラは布団の中で蹲っていた。声を聞いただけで、堰を切ったように涙が溢れ出した。
 シン、シン、シン。
「ステラ」
 部屋の電気を落とし、そっと上掛けをめくってシンがやってくる。ステラの背が震えていることにまだ気づいていないよう
で隣の潜り込むと、上掛けを引っ張って戻し、遠慮がちにステラに寄り添った。
 背中に温かさを感じる。
 お風呂上りでまだぽかぽかしているのか、いつもより温かい気がした。
「おやすみ、ステラ」
 シンは言って、優しくステラの髪に触れた。もう、我慢できそうになかった。
「……!」
 体の向きを変えて、ステラはシンの胸に顔を押し付けた。ありったけ、くっつけるだけ、隙間ないように体をシンに寄せて
腕は背に回し、加減なく引き寄せた。
 この人がいないと死んでしまう。
 この人が好きだ。
 この温かい場所、暖かくて優しい場所。なくしたくない。
「ステラ?」
 焦ったような声が頭上でする。それでも、ステラは力を緩めない。
 確かなものがほしった。
 ここに存在しているという証、生きているという証拠。
「シン」
 顔を上げてステラは自分からそっとシンに顔を寄せた。
 確かめたい。自分はここにいるのだと。感じたい。
 そう思って、ステラは必死に探った。シンに口づけて、必死に探した。ここにいると、私を求めてと。
「……ス、ステラ、どうしたんだよ」
 隙間のできた間にシンが困ったように言う。離れてしまった熱にステラは苦しくなる。涙が伝い、上気した頬を濡らした。
「ステラのこと、きらい?さいきん、シン、にげる」
「え、いや、その、それは」
 知りたいのに。こんなにも胸が熱くなる理由を。
 口唇に触れると、なぜこんなにもステラ自身さえ温かくなるのか。ずっと、知りたかった。
 キスする度に、いろんな感情が自分の中に生まれて、シンのこともっと知りたくなる。自分の中に欲しくなった。留めてお
けたら、どんなに温かいだろう。そう、思っていた。
 でも、最近のシンは答えが見つかりそうなところで、こうして離れていってしまうばかりだ。
 今夜は、ステラは譲れなかった。
 怖い。
 暗闇に食われてしまいそうで、自分を確かめないと、何かが壊れてしまいそうな気がして。
「おねがい。シン」
 どうしてほしいわけでもなかった。
 ただ、同じようにシンにも求められたかった。熱を分け合える、優しいことで満たされたい。
「困ったステラだな……」
 やっぱりシンは困ったような顔をしていた。でも、ステラの肩を抱いて優しいキスをくれる。確かめるようにゆっくりと。
 音が遠くなるようだった。
 体が軽くなって、シンとひとつに溶けてしまいそうな。
「ごめ……ね」
 キスの間にステラは聞こえない声で囁く。声にならない声で。
「ごめん……」

 貴方を思うと、温かくなって、それから苦しくなる。
 私はここにいますか。
 貴方と、私はここにいますか。
 本当は、薬の意味も、記憶のことも、人間のことも、わからないまま。
 でも、これだけはわかる。
 それが本当なら、貴方は悲しむだろうこと。
 私が、貴方を悲しませてしまうということ。
 
 ごめんなさい。 
 私、気づいてもなかった。知りもしなかった。
 
 いつ、消えてしまうのだろう。
 そんな不安に、貴方はいつも耐えていたんだね。一人で。
 私という、不可思議な存在に。

 私は、「ちかい」をした。
 もう、貴方を泣かせない。


 触れ合う間、ずっと涙は止まらなかったらしく、シンの頬まで濡れていた。 
 疲れたのか、いつの間にか口唇をくっつけあったまま、シンはすうすう寝息を立てていた。その寝顔は安らかで、天使のよ
うに見えた。
 いつもはステラより先に寝たりしないシン。
 ステラはいつも先に寝かしつけられてしまって、わからなかったが、こうして寝顔を独り占めすることができるのは幸せな
気持ちがした。なんだか、心にゆっくり湧き上がるもの。
 その感情の名は知らなかったが、愛しくて、愛しくて、ステラはその髪を撫でた。
「ラ、ララ、ラ……」
 止まった涙が、再びステラの瞳からこぼれた。ぽつぽつとシーツを濡らすが、気にせず小声で撫でるように歌った。
 シンが、ステラと同じように素敵な夢が見れるように。


 


 想像したとおり、シンは驚いた顔をした。
 びっくりして、声も出ないようだ。空回りする口がなんとも可愛い。ステラは嬉しくて微笑んだ。
「はい」
 ステラは差し出した一人で作った弁当を、いつまでも動けないでいるシンの鞄に突っ込んで、無理やりに玄関の扉へと進ませた。
「え、ステラ、え?」
「ちこくする。はい、いってらっしゃい」
 まだ少し寝癖のついたままのシンの髪が揺れる。シンは驚いたまま、振り返った。
「う、うん。ありがとう、すんげえ嬉しい……」
「うん。きをつけてね」
 そっとシンの頬に自分の頬を合わせると、ステラは微笑んだ。
「いってきます!」
 いつまでも振り返っているシンにステラは笑顔で手を振った。
 ゆっくりと扉が閉まって、向こうにシンが消えてしまう。
「……シン」
 暫くそこに佇んで目を閉じると、シンの喜んだ笑顔が浮かんだ。ステラを見つめてくれる、その朱色の瞳が胸を締めつける。
 ステラは顔を振るとキッチンへ戻った。
 物凄く散らかしてしまった。四苦八苦しながら作った初めてのお弁当は、きっとうまくいったはず。
 そう思って、ステラは笑顔になった。

 


 

 


「まさか……」
 今日は事務処理で、シンは書類が苦手なはずなのに朝から足取りがえらく軽いため、クルー全員が不思議がっていたら、こ
れが理由だったらしい。
 食堂で広げだしたシンの弁当にすぐに人だかりが出来る。
「ステラちゃんの手作り?」
「ああ、今朝持たせてくれたんだ」
 シンは思い切り下がった目じりでヴィーノに答えた。まだ、蓋の開いていない弁当に全員の視線が集中する。
 あとから来たルナマリアも覗き込んだ。
「へえ、あの子やるじゃない」
「早く見せろって」
 ヨウランまでもが後ろで急かしてきた。シンは得意げに鼻の下を擦ると、深呼吸してその蓋を開けた。
「……あ」
 はっき言って、本当は期待していなかった。 
 料理を知らないステラは、ラクスに教わっているとはいえ、家にいる時はシンが作るので得意なはずはなかった。だからお
弁当がどんな出来栄えかなんて、そんなに期待していなかったのだ。
 ただ、その気持ちが嬉しくて幸せだったのだから。
 なのに、そこにあるのは眩しいばかりの立派な弁当だった。
「ステラ……」
 火元がないために、詰め込まれているのは蒸した野菜や卵料理で、半分はさつま芋のご飯が詰まっていた。なんとも美味しそ
うな弁当に、周囲も感嘆の声を上げた。
「やばい、負けるわ。あたし」
「シンばっかりー。いいよなー」
 もうシンには皆の声は聞こえていなかった。
 握った箸に力が篭る。なんだか言葉も出なくて、込み上げる感情を必死で呑み込んだ。仕舞いには、弁当の上にぽたぽたと涙
が落ちた。
「ちょっと!シン、あんた、何泣いてんのよ」
 ルナマリアが瞬いて、叫ぶがシンには届かない。
「よ、よっぽど嬉しいんだな」
「泣き虫ねえ」
 嬉しかった。
 同時に、苦しくなった。この幸せに。この瞬間に。
 俺、なんて幸せなんだろう。
 きっとこれは俺が寝てしまったあと、ステラは起きて作ったものだ。短時間で出来るようなものではなかった。
 これを渡したくて、懸命に音を立てないように彼女は頑張ったのだ。
「……あんた、食べなさいよ?」
「も……たいない」
「あのねえ。食べなきゃ意味ないでしょーが」
 呆れたルナの声がしたが、シンは箸をどうしても動かせなかった。
「シン、また作ってもらえるのよ。これからはずっと」
 ルナの言葉に周りも同意して頷いた。強くヴィーノに肩を叩かれ、シンは顔を上げた。
「食べろって。そんで、俺にも一口ちょうだい」
 恐る恐る、シンは漸く箸を弁当に運んだ。
 狐色をした優しい色のさつま芋のご飯を口に運ぶ。
「……おいしい。うう」
 少し甘いそのご飯は、柔らかい優しい味がした。まるで、ステラみたいな。
「泣きながら、食べるんじゃないわよ……」
 言いながらルナは苦笑した。
 周りに居たクルー全員が、その様子に顔を見合わせ微笑んでいた。
 絶対に情けない姿を仲間に見せたがらないシン。一切の弱音を吐かず、いつでも先頭に立ち、どんなことでもしてきたシンに
は今までクルーの知らない苦悩も悲しみもあったはずだった。
 こうして、こんなふうにシンの泣く姿が見れる今を、全員が温かい気持ちで見守っていた。
 生き残ってよかった。
 ミネルバにのっていて、よかった、と。
「あたしにも、一口!」
「だー!」
「ケチ言わないでよ。早く」
 取り合うように皆がシンの手元に群がった。
「何をしている?」
「レイまで来たじゃないか!だめだからなっ」
「なに、泣いてるんだ?」
「泣いてない!」
 どっと笑い声が響いて、皆が笑いあう。
 その姿を離れたところでタリアはアーサーと共に眺め、微笑んだ。
 

 

 

 


 
 
 ケースの中に入っていた紙切れには、ある住所が記載されていた。
 本当はどうやって向かえばいいのか、ステラにはわからなかったが、これはアスランやラクスには聞けない。考えに考えて
ステラは街に出ることにした。
 誰かに聞くことが出来れば、そこへ行くことができるはずだ。
 
 いつもは履かないジーンズに足を通し、シャツを羽織って上から分厚いジャケットを着た。奥の引き出しからシンが護身用
に隠している銃と鎖に繋がった小型発信機を取り出した。
 銃は懐に隠し、発信機は首にかけ、シンのキャップ帽を深くかぶった。

 部屋を振り返って、ステラは目を伏せた。
 テーブルには二人分の夕食を用意した。寝室には今朝干してふわふわにした布団を敷いた。いつ、シンが帰ってきてもいい
ように部屋の明りはつけたままにする。
 冷蔵庫から、一つだけ宝石のようなチョコレートを取り出して、ステラは口に含んだ。
 ルナマリアの強さを分けてもらうために。


 扉を出ようとして、立ち止まる。
 もしも。
 もしも、ここへ帰ってくることが叶わなかったら?
 
「シン」
 心がぽっかり穴が空いたみたいにすうすうした。
 でも、今はそうならないために行かなくてはならない。ステラは深呼吸して、引き出しの上にある紙を引きちぎって、そこ
にペンを走らせた。
「字も、れんしゅう、したよ」
 微笑んで、ステラはペンを置くとテーブルにそれを置いて、今度こそ部屋を出た。


 身を切るような寒さに、ステラは目を細めた。
 街へ向かうために行こうとしたその先に、黒い車が止まっていた。
「……?」
 深くかぶったキャップのつばを少し上げて、ステラは様子を窺った。すると、車のドアが開き、声がする。
「どうぞ、ステラ」
 それは、昨日聞いたばかりの声だった。

 

 


 
 


 見たことも、来たこともないはずなのに、何故かそこは知っているような感じがした。
 案内された先は、とても遠かった。ステラにはわからなかったが、そこはオーブではないようだった。途中、車は船に乗船し
何時間か海を渡ると、そのあと森の中を走った。
 もうすっかり夜になった暗闇に、その施設は浮かび上がるように聳え立っていた。
 
 ところどころが崩れ、痛んだ建物はまるで攻撃でも受けたあとかのようだった。

「どうぞ」
 男はそういって、車を降りると施設のドアをくぐり、ステラを案内した。
 施設内は白いタイル貼りで、壁にはあちこち染みがあった。進むにつれ、ステラは気分が悪くなる。ここはどこだろう。どう
して知っている気がするのだろう。この廊下も、この建物も。
 二階に上がり、男は立ち止まった。
 透明な扉の向こうに、研究室のような部屋が見える。多くの試験管が壁沿いに並び、青い明りが照らしていた。
「ようこそ、我がラボへ。生き残った愛しのモルモット」
 無表情で、なんの感情も表さない瞳で男は振り返った。
 気分が悪い。
 ステラは胸を押さえて膝をついた。吐き気が込み上げ、締め付けられるような圧力が脳裏を支配する。
「戦後、この研究を再開するには時間が必要だった。資金も、実験結果も、まるごと消失してしまったからね」
 霞む視線の先に、試験管が映る。
 収められた生体の数々。試験管の中で繋がれている子供たち。
「あ……ああ」
 揺らぐ体を抑えながら、ステラはその試験管に近づいた。這うようにそれにもたれ掛かる。
 手をついて頬を擦りつけたその先には、見たことのある顔があった。
「アウ……ル」
「それは本人じゃないけどね」
 水色の髪を液体に揺らめかせ、試験管の中の少年は膝を抱えて浮かんでいた。
 思い出せない。
 アウル、アウルなのに。アウルは……ステラの、ステラの。
 頭を抱え、理由の知れぬ涙を流したままのステラに男は笑みを浮かべ、端末に手をやった。
「実は君にも、あとの二人にも、ある試みをしていた。だが、二人は木っ端微塵になって肉体を失ったようだから。それは叶わな
かった。君と違ってね」
「う…うう……」
 端末が緑色に光り、大きな画面にたくさんの記号や写真が並ぶ。
 その中には記憶の中に薄っすら残る、ネオやスティング、アウルの顔があった。必死に顔を起こしてステラは見つめた。知って
いる。思い出せ、思い出せるはず。
 ステラの瞳は燃えるように画面を見つめた。

 ステラ、いい子だ。ステラ。

「ネ、オ……」

 よそみするなよ、ステラ。

「スティ…ング……」

 バーカ、おバカステラ!

「アウル……」

 ステラの瞳にたくさんの記憶がフラッシュバックした。
 自分を撫でるネオの手。
 迷子になるなと引っ張ったスティングの手。
 仕方ないなと叩かれたアウルの手。
 叫んで、叫んで、泣き叫んで乗ったガイア。
 できるねといわれて、乗ったデストロイ。
 海で歌いながら、振り返るとそこにいたスティングとアウル。
 艦艇のデッキで月を見上げ、一緒に並びあったアウル。
 ステラの忘れてしまったことを、これは持てと貝殻を渡してくれたスティング。
 優しく、温かい手でいつも撫でてくれたネオ。
 海に落ちて。
 オレンジ色の暖かい火にあたって。
 初めて温かい肩と触れ合って。
 大切な、言葉に出会って。
 最期に交わした言葉は、彼らと、交わした言葉は。
 
 死ぬなよ。


「ィやあああああああああああ!!!!」
 後退り、叫んだステラは思い切り背後の試験管で背を打つ。
 どっと溢れ出した涙が頬を伝い、止め処なく流れた。立っておれず、ステラは膝を付いて叫んだ。
「あああああああ!!!ぅうううあああああ……!」
 届かないそこへ、ステラはのた打ち回りながら手を伸ばした。
 何故、何故、何故、こんなにもこんなにも大事なことを失くしていたのだろう。これは自分の記憶。知っている。でも、な
かったことのように、曖昧で、順番もわからない。
 わからないのに、本来あった本当の温もりがありありと思い出された。
 触れ合った温度、重ねあった手。
 知っている。
 知っている。俺たちは価値がある人間だと、人類の最高になったと、死ぬわけがないと悲痛なまでに叫んだアウル。
 知っている。失くしていくことを自覚し、そうでなくては生きていけない自分たちに絶望と希望を混ぜていたスティング。
 いつでも、いつまでも、世話をかけてばかりだった自分。
 
 ステラの情けなさで救うことのできなかったネオ。
 いつも助けてくれた、温かいネオ。

「ど…うして……」
 どうして私は。
 私だけが生きているの。
「あ、ああ……」
 浮かぶ。
 触れたかったのに届かなかった、愛しい顔。
 伝えたかったのに、言葉にしたあと、見つめることが叶わなかったあの大好きな瞳。
「シ、ン」
 ステラは痙攣するまま、床に倒れた。
 瞳からはまだ涙が流れ、薄く開いた口唇からは漏れるように同じ言葉が繰り返された。
「素晴らしい。思い出したのか?」
 男はステラを見下ろして笑うと、部屋に入ってきた研究員に指示し、ステラを立たせた。
「じゃあ、これも覚えているかな?」
 空ろな焦点の合わない眼差しでステラは指された方を見た。
 そこには棺桶のような、赤い布地の容器があった。
「揺りかごだ。いい夢をみようか」
 ステラの瞳が大きく見開かれる。そう、それはステラたちが眠るために入っていた入れ物。あそこに入ると、辛いことも
怖いことも、なにもかもなくなる。あれは。
「う……い、いや」
 引きずるようにして、そこへと連れて行かれる。
 這うような恐怖がステラを襲った。どうしてもそこへ入りたくなかった。入れば、何もかも消えてしまう。ステラが、ステ
ラでなくなってしまう。
「大丈夫さ、君は生きることができるんだよ。これでね」
 男は笑っていた。
 ステラは意識を保ちながら、震える手でポケットからケースをだした。
「これ……あれ、ば……しな、ない?」
「ああ。だが、薬漬けじゃなきゃ機能しないエクステンデットというのも、変わり映えしない。私の研究はね、進んでいる」
 そういって、ステラの手からケースを奪うと屑入れに投げ捨てた。
「あ……」
「私はね、この研究に人生をかけた。君たちの生み出しかた、そして生かし方。漸く、全てを形にできるんだ。その為に君に
は協力してもらう。止まった心臓を目覚めさせる細胞と、薬物を投与していたんだ。それが機能すると、君が証明してくれた。
これでまたこの研究も日の目をみる!戦争がなんだ!終わりがなんだという。兵器ではないさ、これは進化だ。人類のね」
 狂気に狂った瞳で男は捲くし立てた。
 息をするのも苦しかったが、ステラは息を整え待っていた。心が震えたが、自分を律した。そう、エクステンデットではないか。
できる。自分にはこの状況を切り抜ける力があるはずだ。
 このままではいけない。
 記憶の中に生きる彼らに何て言う。
 待っていてくれる、シンに何ていう。
「入れろ」
 ステラを引っ張った男の腕をステラは思い切り蹴り上げ、後退した。すぐに懐から銃を出し、揺りかごに向けて数回発砲した。
 すぐに男がこちらへ向かってきたが、ステラは身を屈めて足を撃つ。
「ぐ!」
「……」
 ステラはゆっくり下がって、その部屋を出た。走りながら、首から鎖を引っ張り出して小型発信機を二つに折る。
「シン……」
 なんとかして逃げなくては。
 息が苦しい。慌ててポケットを探るが、つい先ほど捨てられたことに気づく。
 徐々に胸を刺すような痛みが押し寄せているのを感じたが、ステラは息をゆっくり吸って走った。

 

 

 

 


 オーブに停泊中のミネルバは本日はクルーが定時に帰宅した為、夕方から静まり返っていた。
 タリアは艦に残ってクルーの行った事務処理の束を前に、硬くなった肩を慣らした。
「……この通信……」
 目前の端末にエマージェンシーの点滅を見つける。
 しかし、光るその先はオーブ内を示していない。遠く離れた元連合軍事施設のあったロドニアだった。
「しかも、シンのものね」
 素早く立ち上がって、タリアは通信機でシンを呼び出した。
 同時にミネルバの緊急スイッチも押す。
 艦内にはすぐに、真っ赤なライトを照らしブザーが響きだした。
『はい、シン・アスカです』
「シン。今どこにいる?」
『今から、家に帰るところですけど』
 タリアは舌打ちした。シンが無事ならば、シンのものを使えるのはたった一人だ。しかも場所はあのロドニア。
「すぐにミネルバへ。コンディションレッドよ」
 言い放って、タリアは通信を切る。額に嫌な汗が滲んだ。端末に手を叩き付けたところにドアが開いた。
「艦長!コンディションレッドとはどういうことです!」
 艦内に同じく残っていたらしいレイが、タリアの元へ走り込んでくる。
「レイ、あとで説明する。とにかく、デスティニーと貴方のレジェンド、すぐに出せるようにしてちょうだい」
「了解」
 息を呑んでレイは頷くと、敬礼をしてすぐに走り去った。
 タリアは横目でもう一度みた画面に、顔を振る。
 なんてことだろう。今になって、なぜまたあの忌まわしい施設が関与する。なんの因果だというのだ。
「シン……」
 祈るように手を組んで、タリアは肘を付いた。
 昨日のことのように、告白する真剣なシンがタリアの見つめる先に蘇った。

 

 


 

「コンディションレッドって……敵もいやしないのに?」
 シンは急に切れたタリアからの通信に首を傾げながら、もう目の前の我が家を見やった。明りがついている。ステラが自分の
帰りを待っていた。
 すぐに向わねばと思ったが、一目、ステラに会ってからでも間に合うはずだ。
「ステラ、ただいま!ごめん、またすぐ出なきゃ……」
 玄関をくぐって、シンはステラがいるであろうリビングに駆け込んだ。しかし、そこにはステラの姿はない。
「ステラ?今日、お弁当さ。みんながくれってうるさく……て」
 声をかけながら廊下を振り返るが、物音ひとつしなかった。
「……ス、テラ?」
 シンは恐々と向き直って室内を見回した。瞬間的に嫌な予感が背中を駆け巡る。
 テーブルには夕食の用意がしてあった。シンの好物ばかりがそこに並べてある。
「ステラ!」
 叫んでシンは寝室を開けた。
 そこにはステラはいない。ふかふかにした布団だけがそこにあった。
 昨日は、そこで笑ってたのに。
「よせよ……」
 後退り、シンは扉にあたる。
 その視線の先に洋服棚の奥が開いているのを見つける。そこにあるのは護身用の銃のはずだ。
「なんでだよ!なんで……っ」 
 シンは走り、リビングに戻る。ステラがいると信じて。
「どうしてだよ……!」
 誰も居ない。
 リビングのテーブルに思い切り拳を叩きつけて、シンは震えた。混乱して、何をすればいいのかすらわからなかった。
 今朝、いってらっしゃいとステラは手を振っていたではないか。確かに、ここで。
 不意に目の端に紙切れが映る。
 手にとって見ると、そこには少し頼りない小さな字が並んでいた。

 
 シン、おかえりなさい。
 ちかいをまもるためにおくすりがひつようです。
 わたしは、わたしのために、たたかいます。
 ごめんなさい。

 

 ぼたぼたとシンの涙がステラの字を滲ませた。
 滲んで見えないその字を何度も、何度も、繰り返しシンは指でなぞった。ステラの書いた字を。震えているような字が、彼女
の心情を表していた。
 シンは血が滲むほど、口唇をかみ締めた。
 なんて俺は馬鹿なんだ。
 どうして気づいてやれなかった。
 昨日、あんなにいつもより側にいたいとせがんで、あんなにも確かめたがって。
 慣れない弁当を寝ずに作って、帰りを待つと言って笑って。
「眠れなかったんだね……、怖かったんだね、ステラ……」
 本当は口唇を重ねる間にステラが、ごめんねと呟いたのを知っていた。でもそれはそんな意味だと思っていなかった。だから
聞かずにいた。涙の理由も。
「ステラ……」
 紙切れをポケットに突っ込むと涙を拭って、シンは家の明りはそのままに、玄関を出た。
 

 

 

 


 ミネルバはカガリの許可を得て、急速潜航を開始していた。
 急遽かかった招集に、全員が緊張の色が隠せない。

 タリアも、またこうしてこの席で戦闘配備を命じることになるとは思ってもみなかった。

「シン」
『はい』
 呼び出したシンはモニター越しに見ても冷静に見えた。
「大丈夫ね?あくまで救難よ、攻撃は許可しない」
『はい』
「ただし、正当防衛は許可します」
 タリアは言って、息を呑むとレイへの通信を開く。
「レイ」
『はい』
「ロドニアのラボがもし、再開しているようなら検挙します。全ての資料とデータを回収して。プラントにまわす為に」
『……はい』
「いいわね?レイ、必ずよ」
 真っ直ぐな眼差しでタリアはレイを見つめた。頷いて通信の向こうに消えたレイを思って、タリアは俯いた。
 レイのためにも、何かわかるかもしれない。
 彼らを救う、何かが。
 睨みすえた海の向こうが、真っ暗な漆黒だというのに真っ赤に燃えて見えた。

 

 

 


 ステラの逃げ込んだ部屋は多くの試験管が並ぶ部屋だった。
 戦闘があったのか、なぜかそこは荒れ、試験管には明りも灯らず、暗くて見えなかったが床には何体かの生体が倒れている
ようだった。
「!!」
 思わず、手を当てて口を塞いだ。
 目が慣れ見えたその先にあったのは、死体の山だった。
 子供と、研究所の女たち。
「う……が、はっ」
 込み上げ、せり上げるものをステラは吐き出した。吐き気がおさまらない。
 なに、なんだこの場所は。
 脳裏に蘇るように記憶の断片が迸る。
 
 おかあさん、だめだよ、おかあさんがしんじゃうじゃないかあ!

 正気を失った瞳でアウルはそういった。そうだ、死んじゃう。そういった。ネオがラボは危ないといって……そうか、ここ
は。ここは。
 膝を付いてステラはなんとか息を整えた。
 目に飛び込む死体はどれも、本当に残酷なものだった。こんな死に方をしていいわけがない。ステラは側にあった女性の死体
に手を伸ばして、その手に触れた。
「うう」
 涙が止まらない。
 腐食した死体は触れると崩れ落ちた。そこにはもう魂はない。そこにはいないのだ。
「シン、シン……」
 知るということは、手に入れるということは、なんて残酷なのだろう。
 ステラは哀しいのではなかった。
 信じてやまなかったシンとの明日を、こんな自分が叶えることができるのか。
 人の死を犠牲にして、たまたま生き残ったステラが。
 なんてことだろう。こんなものの上に、自分が成り立っていたなんて。気を張ってシンのことを思わないと、今にも自分の脳
天を銃で撃ち抜いてしまいそうだった。
 化け物と、ネオの隣にいた男が叫んだことを思い出す。
 そうだったのだ。本当に、私たちは化け物だったのだ。
「シン……」
 涙で溺れそうな視界に、誰かが走り込んでくるのが見える。
 しかし、もう胸が痛くて起き上がれそうになかった。このまま、このまどろみに身を預ければ二度と起きれない気がした。
 思い浮かぶのは愛しい人の顔だけ。
 まだ、伝えていないこと、たくさんあるのに。
 シン。

 

 

 

「ミネルバ!着艦用意」
 デスティニーが施設から飛び立つのを確認し、タリアは号令をかけた。
「デスティニー、収容します!」
 ゆっくりと空いたハッチに無傷のデスティニーが戻る。駆けつけたヴィーノがワイヤーで降りてくるシンを待った。
「ステラを、頼む」
 降りてきたシンは硬い表情のまま、ヴィーノにゆっくりステラを預けた。気を失っているだけではない様子のステラにヴィー
ノが息を呑む。
 シンはゆっくりとステラの額に顔を寄せると、微笑んで頬にキスする。
「心配するな。俺が必ず助ける。だから、戻るまでついててやって」
「シン!」
 言い終えると、シンは再びコックピットに戻って発進した。
 まだ、あの施設でしなくてはならないことがある。残したレイに合流するためにシンは速度をあげた。

 


「レイ」 
 振り返ったレイは頷いて見せた。
「やはり、研究を再開していたようだ。資料も、データもすべてある」
「そうか……」
 奥を見やると男が二人倒れていた。そして側には大きな棺桶のような容器があった。
「……それで、ステラたちの記憶を消していたようだ」
 シンは目を瞠った。これがステラの記憶を奪い続けたもの。
 まるで……。
「揺りかご、だそうだ」
「よせよ……棺桶の間違いだろ」
 握り締めた拳がぎしぎしと軋んだ。胸を埋める憎悪にシンは目を閉じた。こんな気持ち、もう抱く必要はないと思っていた
のに。どうしてこうも、人は。
 見下ろした視線の先に小さなケースを見つけ、拾い上げた。
「これって……」
「薬だろうな、エクステンデットの。シン、いい知らせもある」
 言って、レイはシンにその薬を持っておくように指示し、手元のデータを見せた。
「ここにある資料、データを持ってプラントへいけば、きっとステラを救う方法が見つかる。薬がなくても生きていける方法がな」
 そうか、と。
 シンは声にならない声で呟いた。
 今にも泣き出しそうな友に、レイは困った顔で苦笑した。ルナマリアの言うように彼は泣き虫になったものだ。
「さあ、早く行こう」
 二人は大きなダンボールに資料をありったけ詰め、抱えると機体に向かうため、部屋をあとにする。
 液晶に照らし出された画面を見て、シンは立ち止まる。
「……ネオ……ネオって」
 危うくダンボールを落としそうになるほど、シンは驚いて息を止めた。
 そこに映し出された仮面の男は、かつて約束を守らなかった最低な男。そのすぐ隣には仮面のない彼の素顔。それは。
「……ムウ、さん」
 レイが先に進んでいるというのに、シンは暫くそこから動くことができなかった。

 

 

 

 


 夢をみた。
 長い夢。
 真っ白の背景の中を、ひたすら走る。走って、走って、走り続けると、やがて人影が見えてくる。


 あどけない顔つきをした、ともすれば少女のような水色の髪の少年。
 優しく笑って、首を傾げるとそのさらさらの髪が揺れる。


 おまえも、なかま?
 

 少年はぶっきらぼうに紡いだ。顔と似つかわしくない喋り方で急にこちらを睨む。

 
 なんだ、弱そ。

 
 興味なさそうに言うと、背を向ける。少年は頭の後ろで腕を組むと、歩き出した。


 待って、待って。
 どんどん遠のく少年の背に、必死になって走り出す。追いかけても、追いかけても、その背は近くならなかった。
 でも、走った。追いつきたくて、走った。

 漸く伸ばした手が、その背に届く。
 しかし、振り返ると背の高い緑の髪の青年に変わっていた。
 

 本当に戦えるのか?お前みたいなのが。


 青年は無表情に言って、ゆっくりと苦笑すると長い腕を伸ばしてこちらの頭をくしゃりと撫でた。


 手間、かけさせんなよ。


 見上げた青年の表情はとても優しかった。鋭い瞳が細められ、そこに自分を映し出す。
 気が付くと、青年の手は離れ、背を向けて彼は歩き出した。

 行かないで。待って。
 置いていかないで、腕を伸ばし必死にまた走って追いかけた。ひたすら、走った。
 真っ白な空間はいつまでも進まなかった。
 走っても、走っても。
 

 消えてしまった青年の背。
 もう前がどこで、後ろがどこかもわからない。足は棒のように動かなかった。

 みんな、どこなの。
 わたしは、ここにいるよ。わたしも、みんなと。

 無意識に探ったポケットから、虹色をした貝殻が出てくる。
 手のひらで、きらきらとそれは光っていた。
 見つめていると、胸が苦しくなって、息が出来なくなって、頭を締め付けるような痛みが這い上がった。
 思わず、貝殻を投げ捨てる。

「ぅああああ、ど、こ、どこお……!」
 喉が痛いくらい、叫んだ。届くように、届いてほしくて。
 泣き叫び、その白い空間に倒れ込む。もう、いくら叫んでも意味がない気がした。

 しぬと、きえる、は意味が違うとアウルがいった。
 なんのためにたたかうのか、知ってもなくすだけなら手にするなとスティングがいった。

 ねえ、ステラ、ここだよ。
 まだたたかえるよ。がんばるから。
 みんな、どこにいるの。


 温かい手が、そっと手に触れてきた。
 何か、手のひらに握らせてくる。
 ゆっくり体を起こし、目を擦るとそこにはスティングがいた。

 駄目だろ。お前、ここにいちゃ。ほら、持ってろ。

「スティング」

 お前、ちょっとは成長しろよ。シンに呆れられるぞ。

「う、あ……、シン、まもる、シン覚えてるの?」
 
 あれだけお前が連呼すりゃあな。

「……うう、あああ」

 まぁた、泣いてんのか。うざいヤツ。

「…ウル、アウル!」

 こっち、まだくんな。まだだろ。

「ステラ、みんなといたい」

 バーカ。その鬱陶しい赤服はどうすんだ?

「みんな、みんなと……」

 こっちには、いつかこれっからさ。また、そのときな。

「…………!」

 我がまま言うな。いい女になれよ。ま、無理だろうけど。

「アウル、いかないで、スティング……おいてか、ないで」
 込み上げる涙で、うまく声がでない。
 徐々に彼らの姿が遠のいていく。自分が遠ざかっているのか、向こうにいってしまうのかわからない。

 笑顔で、手を振る二人が霞むように消えてゆく。
 遠く、遠く。
 真っ白な場所は、目を閉じるように真っ暗闇になった。


 長い夢。
 夢をみた。
 もう、寝ても醒めても、消えることはない夢。
 大丈夫。
 消えていない。二人はここにいる。
 眩しくても、暗闇が押し寄せて光が足元を照らすことはなくても、もう忘れることはない。
 いつでも、瞼の裏に浮かぶ。

 大切な、仲間。

 

 薄っすらと瞳を開けたステラの視界に、見慣れない天井が映った。
 ここはどこだろう。
 思って、首を巡らせようとするが全身が痛くて叶わなかった。視線を横に移すと心配そうに覗き込むシンの瞳が飛び込んできた。
 今にも涙が零れ落ちそうだと思って見つめていたら、本当に落ちてきた。
「なく、シン……」
「ステラ」
 不思議なシン。
 笑ってるのに、泣いてる。
「夢、みたよ」
 ステラは微笑んだ。とても満たされた気持ちがして、心にずっと温かいものがある気がして。
「しあわせな、夢」
「そっか……」
「うん。はじめて、夢、おぼえてるの」
 赤紫の瞳を僅かに細め、苦しそうに伏せたあと、静かにまたシンをそこに映した。
「これからは、起きてるときも、夢みる。ねむっても、夢みれる」
 嬉しくて、そうしたいと心から思った。
 ステラはどうしてか泣いてばかりのシンの頬に手を伸ばして、触れた。温かい。ちゃんと、ここにいる。
「おきてるときにみる夢は、シンの」
 言いかけたステラの口唇をシンは人差し指で、そっと押さえた。
 顔を横に振って、涙を袖で拭うと笑顔でステラの手を握り返した。
「ステラ」
 シンは口唇に当てた指を離して、そっと目を閉じるようにステラに手を翳す。ステラは素直に目を閉じた。
 静かな、少しの間があって、シンの声がした。
「シン・アスカは、自分の一生を懸けてステラを守ります。誰にも負けない愛で幸せにします。誰にも破れない約束をここに」
 翳した手をシンがどけるのと同時にステラは目を開けた。
 シンは、壊れ物を扱うかのようにステラの手を取って、そっとその薬指に指輪を滑り込ませた。
 ステラの指にぴったりの、銀色の輪。
 シンと繋ぐ、輪。
「もう、離さないから」
 大切に、大切に呟くと、シンは瞬きもしないステラの口唇に優しく口づけた。
 大好きなシンの瞳に、ステラが映っている。映り込んだ自分は、目を見開いたまま息もしていなかった。優しい口づけにステ
ラは漸く、瞬いた。
 シンの手のひらにそっと握られた自分の手を、ステラはしっかりと指を絡めて握り返した。
 強く握り合うと、互いの指の間で指輪を感じた。シンのくれた、輪。
 ステラの、ステラだけの場所。
 
 貴方といられることは、私をひとに還してくれるということ。
 何もかもなくす私が、貴方だけは手放せなかった。
 シン、ありがとう。
 
 今だけは、目の端に映ったケースのことは忘れよう。
 もう、起きていても夢は叶うのだから。

 


「あの二人、まだ抱き合ってるって?」
「ルナマリア」
 医務室の外で、レイは壁にもたれていた。そこへルナマリアが静かに歩み寄ってきた。
「ああ。シンに報告があって、来たんだが……当分終わりそうにないな」
「ま、アッチッチね」
 ルナマリアのいい様にレイは苦笑した。
 聞こえた会話がまだ耳に残る。レイは目を閉じて、そっと嘆息した。
「ルナマリア、この世界は」
 唐突に言ったレイに彼女はこちらを向いて先を待った。続きを言おうとして、レイはふと思う。いつも急かすくせに、こういう
時、待てる配慮があるのがルナマリアだ。今まで気づかなかったわけではないが、改めて見直す。
 気の強い瞳がタリアと重なった。
「……捨てたものでもないな」
 驚いたように見開くルナの瞳を、レイは見つめたまま動かない。
「レイ」
 暫くルナはそのままだったが、次いで目を伏せるといつもの笑顔を浮かべた。
「そうね。あたしも、そう思う」
 言って、レイの肩に触れる距離で隣に並んだ。
 中の二人の温かさを分け貰うように、黙って二人で壁に背を任せた。

 

 

 いつも拍手、ほんとうにありがとうございます!!

跳んで喜びまくってます。

 


・・・ほんと、悩み悩んで、もう、なんだか納得いかなくて書き直しまくったものです。

でも、やはり。。。

シンとステラ。きっと本当に多くの現実にぶつかりながら越えてゆかねばならないのだと。

そして生きてゆく強さを、互いにみつけてゆくのだと思うのです。

人はどこまでいっても、ひとり。

だからこそ、誰かを愛し、求め、失ったり、手に入れたり、泣いたり笑ったりするのではないかと。

 

ぼくはそういうひとを亡くしたことがあるだけに、どうしても二人にはしあわせを掴んでほしい。

頑張るのではなくて、生きて、助け合って。

大丈夫、まだいけると手をとりあって。

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